「A」か「B」、「白」か「黒」、「善」と「悪」。
世の中にはけっこう「二択」問題がある。
もともとの「二択」は、人類最古の経典宗教「ゾロアスター教」がそれで、世界を「善」と「悪」に分けこれを「二元論」とよんだ。
いわゆる「拝火教」というのは、火が照らす「明」とその陰の「暗」をはじまりとするから、「明」のおおもとを拝むことになったのだろう。
これを「アフラ・マズダ」という。
しかし、「暗」を拝むひともでてきて、これは「悪」の意味であるから「悪魔信仰」というものになった。
それが「アーリマン」であり、のちの堕天使「ルシファー」の発想の元になる。「ルシファー」とは「サタン」でもある。
もちろん、ゾロアスター教では、アフラ・マズダがアーリマンに勝利することになっている。
だから、アフラ・マズダこそが「唯一絶対神」だとさだめている。
ゾロアスター教は人類最古なので、聖書ができるのはずっと後だ。
旧約聖書の「ヤハウェ」も、新訳の「父」も、コーランの「アラー」も、アフラ・マズダの影響からのがれることができない。
あたかも、ゾロアスター教なんて日本人には関係ない、というむきもあろうけど、なにしろ世界最古の経典宗教なのだから、人類の時間の流れのなかに入りこんでいる。
仏教、とくに天台宗・真言宗でする「密教」の「お焚き上げ」は、「拝火」していることになるし、西洋文化の原点である古代ギリシャから、「聖火」というかんがえかたがいまにもオリンピックにつたわっている。
わが国の自動車会社だって、東洋工業が「マツダ」を名乗ったのは「アフラ・マズダ」からの由来であって、英字では「MAZDA」と表記する理由である。
エンジンの中にある「火」を象徴としている。
そんなわけで、「二択」という方法で選択肢とするのは、人類の脳にプログラムされているかのように「大好き」なのである。
「偶数」か「奇数」かになれば、サイコロ賭博にだってなるし、「赤」か「黒」かになれば「男」と「女」を描いたスタンダールの名作に。「赤」か「白」かになれば源平以来の戦いになって、紅白歌合戦にもなる。
それだから、「第三の道」という「三択」が唱えられるのは、「二択」へのアンチテーゼになっているのだろう。
しかし、世の中は「三択」だろうが、じっさいは複雑怪奇なのものだから、単純化という点でいえばそうたいしたかわりがない。
けれども、単純化してすくない「択数」を設定しないと、こんどは「選べない」という問題がでてくる。
むかしは「生まれ」によって職業が選べなかったから、選択肢そのものがなかった。
これは悲惨なことだというひとがいるけれど、世の中全体が「そうなっている」のなら、本人は自分が「悲惨」だという認識すらなかったろう。
いまは職業の選択について自由になっているから、なりたい職業につけないことが「悲惨」になっている。
さらに、職業がどんどん専門化して高度になっているので、はやいうちからこの準備をしないと、「いい職」に就くことができない。
しかし、わが国にはなんだか奢った感情があって、人生の準備である「教育」に熱情をうしなってしまった。
これは、「いい職」というかんがえが「いい会社」のままだからだろう。
一部の日本企業が、新卒採用にあたって、「研究職」という限定をつけながら、いきなり初任給を1千万円としたことが話題になった。
「有能な人材」を得るには、従来の給与体系ではだれもきてくれないからだという。
すると、二年目の先輩は、いったいどんな給与体系のなかにいて、三年目、四年目、、、、、三十年目となると、どうなっているのだろいうかと興味がわく。
まさか、今年のひと「だけ」に適用されるということはあるまいが、報道にはどこにも解説がない。
しかし、大企業がかかえる「研究職」全員に、1千万円スタートの給与体系を適用すれば、おそらく人件費が高騰するから「業績」に影響するはずなのだが、そんな報道もないので、「まさか」が現実なのかとうたがうのである。
もしもこの「まさか」が現実なら、職場内での「イジメ」が発生しないのか?
あるいは、チームにおける一体感が壊れることはないのか?と心配するのである。
これまで、戦後の日本企業は、有能なひとを評価しない、というシステムで成功してきた。
これは、みんな低い賃金だったから、有能な本人も「気づかない」ので、職場の安定がたもたれたのだ。
ちなみに、本人が気づかないという点での悲劇を描いたのが『テス』だった。
なにに「気づかなかった」のか?
それは、他人から「絶世の美女」と評価されていることだった。
いまは世界から有能な人材を採用しないと「いけない」ということになっていて、とくに有名なのがインドの工科大学卒業生への買い手企業による「オークション」だ。
しかしながら、「有能な人材」とはどんな人物なのか?という「基準」は日本企業にあるのだろうか?
さてそれで、「有能なひと」と「有能でないひと」のどちらがよいのか?たっぷりかんがえてみたいものである。