現代の人類がもっている数々の「賞」のなかでも、アカデミー賞というのはきらびやかさで他の追随を許さない。
それでも「賞」なのだから、選考基準が公表されているので信用があるのだ。
どんな「賞」でも、目立つのは「授賞式」となるけれど、ほんとうは、かなり前に発表される「選考基準」が重要なのである。
だから、選考基準が事前に公表されていない「賞」には、残念だがなかなか「権威」がともなわない。
選考にあたるひとたちの「好み」とされたら、それは選考者の肩書きだけに頼ることになるからである。
それで、「選考理由」という話になって、あたかももっともらしくすることがある。
すると、主催者は選考者を選考するという事前選択で失敗ができない。
その道の「権威」というひとは数少ないので、似たような賞に同じひとが選考委員になったりするのはまずいから、選考者から選考されて、それが賞の淘汰にもなる。
選考基準に合致している、という理由が書けるのは、事前に公表された基準があってのことなので、基準がないなら作文しかなくなるのである。
だから、選考基準が公表されていて、選考者にも選考された賞ならば、それがその分野で「最高」ということになる。
するとこんどは、「最高の賞」に選考者として選考されることが「最高」になる。
だから、選考者にとっての最大関心事項は、賞の選考をすることになる。
科学的業績なら、成果をみることができるし、それには「論文」という成果も含まれる。
機械的ではあるけれど、論文の引用数という基準もあるのは、論文という成果を数値化できて、客観的になるからである。
文化・芸術の分野の賞は、客観的という部分で困難をともなう。
そもそもが「主観的」であるからだ。
この矛盾をどうするのか?が問われるのである。
さて、アカデミー賞のあたらしい選考基準とは、具体的に「作品賞」でのことをさす。
2024年以降、以下4つの基準のうち2つ以上を満たさないとノミネートもされない。なお、キーワードは「多様性」である。
・主要な役に少なくとも1人はアジア人や黒人などの人種的小数派を起用すること
・プロデューサーや監督、撮影などの製作スタッフのトップのうち、2人以上は女性や性的マイノリティー、障がい者などの中から起用すること
・機密フォームを提出し、多様性の数値を開示すること
・配給会社または金融会社が、過小評価されているグループに機会を提供していること
ハリウッドでは、賛否が分かれているという。
米映画芸術科学アカデミーは、社会的議論だけでなく関係者からもさまざまな表明が巻き起こることを承知で決定し、発表したはずである。
日本だったらどうするのか?
しっかり「事前に根回し」をしてから発表するのだろう。
この「順番」のちがい。
これは、決める側がリスクをとるか?とらないか?の「ちがい」なのである。
ここでいうリスクをとるとは、理論武装もしている、ということを含む。
また、アメリカ人は米映画芸術科学アカデミーという民間団体に、政府や政治家の関与をよしとしない。
わが国では、「文化庁」という役所がしゃしゃり出る文化がある。
日本アカデミー賞協会の設立時の名誉会長は、初代文化庁長官、今日出海氏(今東光大和尚の実弟)だった。
おそらく、本人はかつぎだされたのだろう。
それはそうと、選考基準をもって経営に誘導を図る、というやり方は、アメリカでは、低迷していたアメリカ経済を復活させたと定評の『マルコム・ボルドリッジ国家品質賞』という賞がある。
共和党レーガン政権時代に創設されたもので、尽力した当時の商務長官の名前を入れている。
「国家品質賞」なので、アメリカでは珍しく国家が関与している賞だ。
授賞式はホワイトハウスが会場で、大統領から直接授与される。
よって、最高峰ともいえる経済賞になっている。
この賞の「選考基準」は、アメリカの国家プロジェクトだった日本の経営・経済研究の「成果」がつかわれている。
パパ・ブッシュを破った民主党クリントン政権で「途切れるか?」と心配されたけど、クリントン氏も積極的に支持して継続され、政権党にかかわらずいまに至っている。
宿泊業界にこの賞が影響を与えたのは、「選考基準」にある社内システムを、リッツ・カールトン・ホテルが独自に工夫した『クレド』でしられる。
「サービス品質」という概念も、この賞が打ち出したものだ。
下地にされた日本の業界に、「サービス品質」が根づかない不思議がある。
日本生産性本部が、逆輸入してつくったのが『日本経営品質賞』だ。
つまり、日本からアメリカに渡り、また帰ってきたようなものだから、太平洋を往復している「賞」である。
経営品質協議会という組織が、ちゃんと「選考基準」を定めている。
受賞目的だけではなんだか動機が不純だけれど、「選考基準」には、経営の品質を上げるためのヒント(手順)が示されているようなものだから、挑戦してみる価値はある。
コロナ禍なのだから、より一層重要になったとかんがえるべきなのである。