戦後、西ドイツでは、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者)党は、禁止されて、東西ドイツ統一後のいまでも有効であるし、当局による取締がおこなわれている。
その理由が、人類社会に厄災をもたらしたことにあるのは、日本人だっておおくのひとがしっている。
それに、イタリアのムッソリーニが率いる「ファシスト党」をくわえて、「日・独・伊・三国同盟」を結んだことの「痛さ」とは、わが国の歴史の痛恨をいう。
なお、ムッソリーニは、あんまりの「極左」だったから、イタリア共産党から「除名」されて、ファシスト党(超極左)を設立した経緯がある。
昭和14年(1939年)、平沼騏一郎内閣は、「独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という談話を発表して総辞職に至る。
「日本外交の国際認識の欠如」のもっとも顕著な例として、いまでも語り継がれている。
しかし、この翌年の9月27日、ベルリンと東京で三国間条約が調印された。当時は、帝国議会での批准を要しない。
「日本外交の国際認識の欠如」というフレーズは、いつ(戦前・戦後)でも、何回でも使える、驚くほど便利ないいまわしである。
つまり、日本(人・国)は、「外交音痴」ということなのだ。
国が外交音痴なのは、職業外交官に依存しているからである。
職業外交官とは、外務省の外交官試験合格者たちをいう。
わが国には、職業軍人がいない建前があるから、外交官の頭脳には「軍事」も必要なのだけど、戦前・戦中の軍人依存があったから、戦後の日本外交官に「軍事」が抜けているし、興味もないから研修もさわり程度で済ますのだ。
戦争とは外交の延長にある。
これが、戦争を繰り返してきた欧州の常識で、クラウゼヴィッツの『戦争論』(ナポレオンの国民軍についての研究)は、いまだって必読の書に変わりはないし、マキャベリの『君主論』も彼の地域のひとたちには同様である。
大使館に派遣される、「武官」がいる、とはいえ、本国における自衛隊制服組が、首相官邸の敷居を跨ぐのにどのくらいの時間を要したか?
つい最近まで、制服組トップは官邸に入ることすら許されなかったのだ。
これを、以前、「新・平安時代」だと内輪に書いたことがあった。
藤原氏一族が支配した時代、貴族たちは、血に穢れた「侍」たちを忌み嫌ったから、「大将」やら「少将」の肩書きは一族に与えても、本物の武官たる「侍」には、下級の地位しか与えなかった。
これが、東の平将門、西の藤原純友の乱となる。
現代の「侍」で「穢れ」の対象になっている、自衛隊が乱を起こすのではないか?
「起こせ!」と叫んで、失笑がかえってきたのが三島由紀夫事件だった。
その話の延長に、『皇帝のいない8月』(1978年)があった。
はたして、「荒唐無稽」と切り捨てられるものか?
名画と名高く、バーグマンの美女ぶりが印象に残る、『カサブランカ』(1942年)の背景にある、「緊張」は、ナチスの傀儡といわれたフランス・ヴィシー政府が支配するモロッコにおける人間ドラマで、登場人物たちの背景もえらく複雑だけど、「アメリカ参戦」と重なる観客の背景も計算されているのだ。それで、アカデミー賞3部門を受賞した。
そこであらためて、「連合国」をかんがえてみると、基軸は英・ソ・米(ずっと「中立」といっていた)ということで、本当は、「英・ソ」の連合なのである。
戦後「鉄のカーテン」ができて、あたかも「冷戦勃発」となるけれど、どうして「ソ連」と連合したのか?
こうやってみると、がぜん「チャーチルがあやしい」のだ。
英国保守党の「黒歴史」が、チラチラする。
大英帝国の、既存ルールを無視して、都合がいい新規ルールをつくる行動原理と習性がみえてくるのだ。
「赤い帝国」となった、ソ連や中共が、大英帝国のやり方を学んだということがよくわかるというものだ。
「人類に厄災」といえば、わが国に原爆を2発も落したばかりか、通常兵器にあたるという焼夷弾(粘性のある油が主)だって、民間人を焼き殺すための兵器だ。
水をかけても消えないし、顔など皮膚についたら、どんなに拭っても取れないで焼けるだけだ。
木と紙で作った家に住む日本人を殺戮したのは、アメリカ民主党政権であった。
昭和20年5月24日の空襲で、慶應の小泉信三塾長、翌日の「山手大空襲」では、ギリシャ哲学の田中美知太郎博士が大やけどを負って、ご両人とも顔が崩れるケロイドの後遺症が残ってしまった。
ならば、どうしてアメリカ民主党は禁止されないのか?
いまやっている「トランプ弾劾裁判」は、アメリカ民主党禁止のための「わざと」かもしれないと勘ぐりたくなる。
その意味でいえば、「言論戦」や「思想戦」が起きているのである。
わが国には、なんでもいえる「言論の自由」を金科玉条のごとくにいうひとがいるけれど、「ナチス禁止」には反対しない。
それにくわえて、たいがいが「反米」だけど、その対象は、共和党なのであって民主党ではない不思議がある。
それは、国内にあって、共産党を禁止しないことにあらわれる。
かつての社会主義圏だった東欧諸国はもとより、共産党を禁止している国は多数ある。
むしろ、共産国でないのに「共産党」が議席を持つ国は、日本とフランス「だけ」なのだということもしっていていい。