ウインドウズというパソコンのオペレーション・システムが2015年に刷新されて,だいぶ時間がたった.
立ち上げ画面には世界の絶景写真が自動的にでてきて目を楽しませてくれる.
こうした写真画像の「風光明媚」に,どのくらい「日本」があてられているのだろう?
外国人観光客のいう「日本は美しい国」とは,幕末から明治初期に訪れた外国人がのこした「美しい」とおなじなのか?ちがうのか?
おなじなのは「清潔」という意味の「美しい」だろう.
道路端も,公衆トイレも,この国は概ね「清潔」だ.
このことは,かのシュリーマンも,相当に賞賛している.
舗装道路も自動車も,電気や近代的な下水道もなかった当時の横浜や江戸をみての感想である.
いまでも観光地にある「観光馬車」の馬には糞を受けるものを装備しているが,むかしはそんなものはなかったから,道には馬糞が点々とあったはずである.しかし,よい肥料になるため,ちゃんと始末していたのが日本人の行動だった.
人糞とて貴重な肥料として,現金で売買される対象だった.世界に類例がない糞尿輸送については,西武鉄道の創始者,堤康次郞の「苦闘三十年」(三康文化研究所,1962年)にもある.
ヨーロッパのふるい街並みにつきものの「石畳」は,下水がなかったときに,人々が窓から棄てた汚物を流すためというから,人畜ともに相当量が道に「あった」のは事実だ.
ロンドンブーツと紳士の傘は,これらを避けるためというはなしもある.
東京台場にあるトヨタメガウエブのヒストリーガレージで,「パリ」に行けば床に精巧な犬の糞があるほどなので,ヨーロッパから日本に来たひとが「清潔で美しい」と感じたのは,当然だった.
当時とちがうのは,「スカイライン」の美しさだったのではないか?
電柱も電線もなかったけど,高層建築物は「お城」だけだから,おなじ高さで,似たような瓦の屋根が連なっていたはずである.
だから,街から少し離れた丘や山からの景観は,美しかったと想像できる.
いまは,地方の城下町にいっても,そんなものは猫の額ほどの保存状況だ.
かつての「お城」さえ,その跡地が公園ならまだしも,無粋このうえない建築の県庁や,復元とは名ばかりのコンクリートでつくった城が建つ無様を,観光資源だとかんがえる想像力に,ただただおどろくばかりである.
また,場所が「自然の景観」になると,たちまち日本の景色で邪魔をするのは「高圧線」である.
どんな「山」にも,高圧線が設置されているから,その「産業優先思想」のすさまじさが見てとれる.
デジタルカメラ時代になって,トリミングすれば消せることにはなったが,肉眼では消せないから,意識から消すしかない.すると,あんがい気にならなくなるという特技を,日本人は習得した.
スカイラインの美しさにこだわっているのは,英国のチャールズ皇太子であると前に書いた.
こういう美的センスを見習いたいものだ.
いまは,「インスタ映え」するとなれば観光地になる.
この夏に訪問した,城崎温泉の街並みが,その理由で若者や外国人観光客の人気を呼んでいた.
浴衣に下駄をつっかけて街を歩き,湯をめぐる.
ふるい日本的な情緒がのこる街並みと,浴衣が「インスタ映え」するのだ.
しかし,「統一感」ということでいえば,櫛の歯が欠けたような街並みで,ある意味「日本的バラバラ」になっている.
それでか,撮影スポットが限られるから,似たような画像が氾濫する.
これではすぐさま飽きられてしまうのではないか?
日本観光の印象が,「退屈」になる道理である.
もっと,ウィンドウズ画面の風光明媚を,じっくりながめて,そこにあるかんがえ方を思考するとよいのではないか.
それが,もっともこの国の観光に欠けていることだとおもう.