ウソがつくる「人手不足」

民間事業の人手不足が、結局は「移民容認」という結論に至って、いったん決まればあとは爆走するのが日本人の習性なのである。

しかし、「決める」までのプロセスが、怪しいのはずっとのことで、分かったような話で誤魔化せれて、いつも国民は蚊帳の外に置かれる。
与党の部会やらも、基本的に国民には、「密室協議」だから、しるよしもなく、もちろん地元議員との議論に参加する仕組みもない。

とにもかくにも、選挙で選ばれた、ということの一点で、あとはぜんぶが、「民主主義だ」ということにされている。
まことに便利な、「民主主義」なのだ。

では、民主主義の「本場」ならどうなのか?は、地味すぎてぜんぜん報道されない。
アメリカなら、地元の党組織とかなりの根回しをやっていて、その地元の党組織とは自身の「後援会」とは別物だ。

なので、選挙に立候補するにも、地元の党組織内での予備選挙で勝たないと、本戦に党の看板を背負って(これを「公認」という)立候補もできなくなる。
たとえば、副大統領の娘、リズ・チェイニーが地元共和党組織から除名させられて、下院議員への再選が不可能になったように、である。

いったい、特派員は何をしているのか?と前に書いたが、簡単にいえば、報道会社の「アリバイづくり」のために高い人件費と滞在費用を、新聞やらの読者が、「購読料」で負担させられている。

もちろん、NHKは、受信料収入から使っているのだろうけど、NHKも各国政府と同様に、マフィア化して、子会社・孫会社の収益もチューチューしているのである。

こうした、国のやり口を、地方自治体も真似ないわけがなく、今ではさまざまな行政サービスのなかでも、直接市民に触れる業務は、「民間企業」に事業委託しているのがふつう(たとえば「指定管理者制度」)になった。

国であれ地方自治体であれ、わが国の「公務員」は、いったん採用されたら退職まで、めったに解雇されることはない。

よしんば民間で、会社都合の場合なら、それは赤字で事業継続が困難になったことが解雇の条件となるのである。
もっとも、会社が倒産したら、元も子もなく失業するのは当然だ。

しかし、「身分」が守られる、という点では、公務員は、基本的に倒産しないし、また、スト権が無い分、いったん確定した身分は民間よりもはるかに強固なのである。

すると、民間に事業委託すると、それまでその施設やらに勤務していた公務員たちは、「配置転換」されることになる。

あたかも、民間に委託したから、公務員の数が減った、ように見えて、じつは別の仕事についているのである。
つまり、公務員の数は変わらず、民間委託としての職員数は増えている。

ではどんな仕事なのか?は、このブログで何度も紹介している、『パーキンソンの法則』がそのまま適用される。
仕事は、つくればいくらでもあるものだ。

もちろん、ここに「効率」という概念は存在しない。

効率とは、インプットした資源(ひと、もの、おカネ、時間など)と、アウトプットとして得られる価値の割合をいう。
すなわち「割り算」で算出されるものだ。

民間事業なら、経費と売上・利益といった関係になるが、役所は経費だけで、売上も利益もないから、計算不能になるのである。

そこで、従前の直接雇用の公務員たる職員が従事していたときの数字と、民間企業へ業務委託したときの数字「だけ」を比較する、という手品にもならない方法で、民間への委託の方が「安くなった」として、「効率が上がった」と結論づけることが横行しているのである。

こんな子供騙しでも、民主主義が機能していない(住民による代表のチェックたる「議会」のこと)ので、もはや民間企業からの広告費が枯れてしまったことで、役所の広報予算が頼りとなったマスコミは、どっかから「専門家」なる人物を登場させて、業務委託の効率をいって、ながら視聴している主婦たちやらを騙してはばからない。

どうして役所の広報予算がおいしいのか?といえば、役人の仕事は「予算消化」が優先されるので、「言い値」が通じるからである。
なので、広告代理店や制作会社にとっては、効率がいい、のだ。
少ないインプットでも、大きなアウトプットが得られるという本来の意味でのことだ。

こうして、わが国のなかで、ムダに存在している公務員がたくさんいるので、ほんとうは、ぜんぜん人手不足ではない。

これが、肥大化した政府(国も地方自治体も)の実態で、とうとう究極の「民業圧迫=人手不足」をはじめたのである。

だから、逆神のマスコミは、わが国の人口あたり公務員数は、他国に比べて「少ない」から、わが国の公務員一人当たりでは、これまた「効率的」な仕事ぶりなのだという詭弁を弄して、お役所をヨイショするのである。

諸外国とどのような条件で、公務員数をカウントしたのか?については、ぜんぜん説明しないのだ。

これを、「ゴミ」情報という。

いわゆる、社会調査における、「ゴミ」のことで、議論するデータの信憑性が確保されていないゴミからは、ゴミの議論しかなくなって、ぜんぶの手間がゴミと化す。
だから、真の専門家は、このような議論に最初から与しない。

ところが、一般大衆は、こうしたゴミの議論が大好きで、その証拠が、いまでも毎日、テレビでワイドショーが放映されていることである。
ゴミを電気代を負担して観ている神経がわからないけど、スポンサーがついていることはもっとわからない。

きっと企業の広報担当者も、頭脳がゴミになっているのだろうけど、これで何かしらの宣伝効果があると判断しているのなら、やっぱり視聴者がゴミ頭になっているのである。

残念ながら、ゴミ頭の国民に、民主主義をコントロールすることは不可能だ。

これが、人手不足ではないのに、移民までも受け入れることに異論がないことの本当の理由なのである。

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