キリスト教国化のクリスマス

戦勝国は敗戦国に対して、どこまでの権限が許されるのか?という問題は、敗戦国は「拒否できない」という状況から、「無限大」にエスカレートすることがある。

「国」同士という対等の関係でいえば、「一線を越える」ことは互いのメリットにならないので、やってはならない、という伝統的なヨーロッパでのルールにも抵触する。

なぜならば、狭い地域に多くの国や民族がいるヨーロッパの歴史が、血にまみれたもので、今日の勝者が明日の敗者になりかねない、という切実があったからだった。
それが、「ラグビー」における「ノーサイド」という概念にもなった。

時の権力者が、自分の権力を誇示するために作曲依頼したので、「祝典」としての意味をもつ、ベルディのオペラ『アイーダ』でも、アイーダの父で敗戦し捕虜となったエチオピア王が、自軍兵士達の命乞いに同様の「論」を訴えて熱唱するシーンがある。

ちなみに、この時の権力者とは、オスマン帝国のエジプト総督にして、国内ではムハンマド・アリー朝の5代目君主、イスマーイール・パシャのことである。

そんなわけだから、軍人同士は「明日は我が身」という立場を心得ていたものだけれど、GHQという存在は、これを無視して、敗戦国に対する「過去にない報復」を実行した。
それが、「占領時代」の出来事で、いまに続いているのだった。

だから、わが国は、明治維新で歪んで、敗戦で歪んだのだけれども、「通奏低音」的な伝統もあるから、三重構造で別々の音楽を奏でる「変な」国になっている。
もう偶然でしか「和音」もできない、それが今の状態だ。

アメリカ軍にはない「階級」の元帥を称号としていたマッカーサーは、米軍では「大将」だけど、フィリピン軍からもらった元帥を自称した。
民主主義のアメリカは、軍人をコントロールしないはずはないので、本当の「最高司令官」は、大統領である。

それに、「連合軍」なので、「連合国対日理事会」(米英ソ中の4ヵ国、ただし、「英」には、オーストラリア、ニュージーランド、インドを含むし、「中」とは中華民国で、中華人民共和国はまだ成立していない)があって、マッカーサーの意向から「諮問機関」に降格されたとはいえ、うるさい存在だったのである。

つまるところ、GHQは一枚岩ではぜんぜんなかったけど、内部での「抗争」をマッカーサーが抑えたのを、あたかも「日本のため」という欺瞞で覆い隠すという巧妙さも日本人なら意識しないといけない。
彼の本音は、アメリカの独り占めのためであって、それは大統領を目指す自分のためだった。

上述のように、武人としての「お互い様」を振り捨てて、あらゆる分野で「日本解体」を画策したから、端的にいえばおぞましいほどの国際法違反を実施した、いわば「不法集団」がGHQの真の姿である。

猫が瀕死のネズミをいたぶり殺すようなことを正当化するために、「屁」がつこうが何がつこうが、徹底的に「宣伝」しまくったので、「12歳児」の日本人は、コロッと欺されるひとが続出した。

さまざまな「解体」のなかでの、「宗教」を本稿では扱う。

日本人の宗教観で、もっともいわれている欺瞞は、「無宗教」というナンセンス話である。
じつは、日本人は世界に類をみない「カルト好き」の民族なのだ。

すなわち、自分の役に立つ「神」を信じる、という本質を持っている。
だから、自分に禍をもたらすかもしれない「唯一絶対神」を信仰しない。
この見事な「ご都合主義」は、「先祖崇拝」からやってくる。
いわゆる「背後霊」というやつだ。

両親や祖父母を中心とした、ご先祖様の霊が、自分を護ってくれている。

ここから、全ての「神仏からイエス様」まで、ぜんぶが「自分のため」にあると考えているのが、日本人なのである。
だから、その都度、「効きそうな」場所に行って「祈願」する。
受験なら天神様、安産なら水天宮、葬式仏教もこの延長だ。

こんな日本人をキリスト教徒に改造しようと、まじめに取り組んだのもGHQだ。
その手順の最初に「神道指令」をだした。
これが日本人には「廃仏毀釈」の逆に見えたのである。

それでもって、神棚がある「道場」がある稽古場(アメリカ人には「ジム」)をやめさせようと、剣道などの武道を禁止した。
武道は戦争のためだから、という理由は、GHQの「屁」がつく理屈で、本音は「神道の解体」だったのである。

次の手は、宣教師を大量移入(3000人超)させたし、「物量戦」として、聖書をホテルに無料配布したのである。
このときの「屁」がつく理屈は、自殺を考える宿泊客が聖書を読んで思いとどまるかもしれない、であった。

客室での自殺を迷惑として、この理屈を「真に受けた」ホテル経営者は、積極的に聖書を客室に設置したのである。
それでもって、客室備品のなかでも「自由に持ち去る」ことができるようにもなったのは、十分な在庫を無料で貰えるからである。

アメリカ人は、聖書を読めば、キリスト教に改宗すると信じて疑わず、今日もホテルに聖書があるのだ。
日本人は、論語を1000年読んでも「儒教徒」にはならなかったものを。

そんなわけで、最後の手が、クリスマスだった。
「本場」以上に飾り付けて、街中に聖歌が流れ、ケーキとプレゼントで浮かれるけれど、「何のお祝いか?」を気にする日本人がいないのである。

すべては、自分のため、という原則がなんら変化しない。
それは、マッカーサーが言うとおり、「12歳児」の知能だからか?
いや、それが日本人なのである。

メリークリスマス。

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