先日,阿波おどりのはなしを書いた.
全国的に有名な「お祭り」だから話題になる,というのはもっともなのだが,わたしの興味は,ふつうは行政と一心同体の「観光協会」は,ほとんど役に立たない存在なのであるが,この例では「ふつうではない」ことである.
また,わたしは,「テレビ東京オンデマンド」の会員になっていて,やっぱりネットで視聴している.今週は,久しぶりに「バター シリーズ」を放送したが,なにに興味があるかといえば,批判の対象になっている「農協」の幹部のみなさんの「(悪役としての)態度」が,とにかく番組主旨に沿っていることの不思議だ.
たまたまテーマがちがう事柄ではあるが,本質的にたいへんよく似ているので「ゲスの勘ぐり」ではあるが,書いておこうとおもう.
ワイドショーは観たことがほとんどない.
しかし,いまは「YouTube」という便利な手段ができて,各局のこの話題だけを比較して観ることができる.
一連の「放送」で,もっとも詳細に「週刊現代」の取材内容をトレースしていたのは,「フジテレビ バイキング」であった.
それで,渦中の徳島市長が15日(徳島阿波おどりの最終日),「反論」のために緊急生出演をした.
詳しい経緯は前回書いたから繰り返さないが,破産した旧観光協会が取り組みをはじめた「自主改革」が,「利権」の根幹に触れたために「早期破産」という措置でこの世から消え,この「自主改革」を支援した有名連が加盟する「阿波おどり振興協会」潰しという構図になっているのが放送内容であった.
潰す側の市長が出演したのは,冒頭「全国放送で『利権構造』という間違った印象をながされことをただすため」であると述べたのは当然である.しかし,同時に出演した週刊現代記者との掛け合いは,まるで餅つきの相の手のごとくで,残念ながら市長の主張より記者の発言のほうが筋がとおっているから,視聴者はさらなる「確信」を得たのではないかとおもう.
結局,最初の放送で自身と徳島新聞への批判がおさまらず,祭り最終日に実行委員長本人が上京して「出ざるをえなくなった」というのが本当のところだろう.
市長一人を針のむしろに座らせる徳島新聞の凄みすらかんじる.系列の四国放送のアナウンサー部長だった現市長は,明瞭な声で発言はするものの,残念ながら,中身が薄くて原稿を読むのとははなしがちがうから「反論」はみごとに不発だった.と同時に,市長の頭も空っぽだとばれてしまった.
市長=実行委員長が「総おどり」中止を強くもとめた理由に「安全確保」があった.
最終日のこの日,台風十五号の影響で徳島市には「大雨警報」が発令されていたが,実行委員会は「決行」とした.従来の観光協会主催なら,雨天はチケットの返金をともなう中止決定をしていたはずだから,「安全」より「返金しない」を優先させたというオマケもついた.
この市長の発言からゲスの勘ぐりをすれば,「自己保身」ということの「執着」がどこまであるのか?がこれからのポイントになるだろう.すなわち,徳島新聞への「裏切り」はあるのか?に興味がうつる.
過去最低の集客だったことに強権的実行委員長としての責任問題はかならず起こるが,どこまでも徳島新聞を守ろうとすれば,自身への信頼が破綻するから,なかなかピエロに徹するのも辛い.
この神経戦に,市長が負ければ,鉄板だった「利権」の崩壊はあっけないかもしれない.
そうなれば一方の徳島新聞は,国家総動員法以来の「一県一紙体制」では生き残れない状態になるはずだ.いや,むしろとっくに生き残れないとしっているから「イベント利権」にしがみついているのだろう.似たような例は全国にあるはずだ.
おなじく国家総動員法以来すでに壊れてしまって起きた「地銀の統合」のような他県新聞社との統合を模索するようになる可能性があるから,こちらもウオッチしていきたい.
「バター」のはなしは日本の「食」をかんがえるうえで,ひとつのパターンをつくっているから,どうなるのかは興味深い.
しかし,本稿冒頭に書いたように,テレビ取材にたいしての「幹部」のみなさんの対応が,おそろしく「稚拙」なのでこちらをゲスの勘ぐりの対象としたい.
番組名を明かすと途端に態度が豹変する映像が,これもパターン化して対象が誰でもおなじになって放送されている.これは,「恐怖心」のあらわれではないか?まるで玄関チャイムで吠える「犬」とおなじである.
従来,農協は農水省と一体で,さらに「族議員」に保護されてきたから,このような「敵対的」なことにどうしたらよいか分からず,自己防衛から「強権的態度」になるのだろう.
日本の農協体制は,ソ連型コルホーズのガラパゴス化だとやはり「確信」したくなる.
「広報」という立場からすれば,そんな映像や音声が流れることがどんなに不利かは分かるものの,わからない幹部が「諾」としないのだろうか?それとも,「広報」もわからないのか?どうも不明なのだ.
その証拠が,弁護士による取材側への素っ気ない「回答書」を送りつける感覚である.法的にはわかるが,テレビ番組という特性を考慮しているとはおもえないこうした回答書を起案する法律事務所の実力にも疑問符がつく.
つまり,批判される農協側の関係者全員の「脇の甘さ」が,やけに目立つから始末が悪い.
視聴している一般人は,その誠意のない対応に,またまた「確信」的な感覚をうえつけられるだけである.
だから,自由な取り引きをもとめる側のひとたちへ,いっそうの応援をしたくなるようになるから,「稚拙」だけですむのだろうか?
農水省は農協を裏切って,自由な取り引きを要求する会社にも農協と同じ「指定団体」として早々に逃げているし,公取までが動いているのは役人のアリバイづくりではないかと勘ぐりたくなる.
おそらく,巨大ゆえに,組織のなかのフィルターをとおしてでしか世間をみることができない,成長不良なおとなたちの集団なのだろう.いわば,年をとっただけの子どもである.そのひとたちが権力をもっている.権力におもねれば,有能な弁護士をしてみちをあやめさせるから,おそろしい.
これは,阿波おどりの例と共通する.
おとなのなりをした子どもが仕切っている悲劇.
いつも損をするのは子羊のように抵抗をしらない一般国民である.