コロナ後に混浴は復活するか?

何かとアメリカに対抗意識があるのが日本という国である。

前に「入れ子状態」と書いたけど、その日本に対抗意識を持つのが韓国だ。
こういう関係で、国を比較する習慣は他国にはないから、日本と韓国は世界的に珍しい。

ただ、世界の他の国は日本と韓国がそんな関係にあることもしらない。
興味がないからである。

もちろん、日本人が韓国を意識しないように、アメリカ人も日本を意識していない。
自分達の国の中で、さまざまに争っているのであるから、他の国を気になどしない。

アメリカの現政権は、進歩派だから社会主義を目指している。
徹底的に対抗した保守派の前政権を、とにかく引きずり下ろすのに成功したけど、やっぱり心配なので、大急ぎで「国家改造」に邁進している。

それが、日本人には、かの「民主党政権」を思いださせるのだけれど、トランプ氏への嫌悪感情の洗脳に成功しているので、いまの与党政権が、民主党政権よりもはるかに過激でも気づきにくくなっている。

まことに、マスコミの力は偉大なのだ。

そんなわけで、日本においても「フェミ」のひとたちが泣いて喜ぶ法律が、アメリカで成立した。

連邦法としての、「男女平等法」である。

この「法」によって、たとえば、生物学的には男性でも心が女性なら、女性だとする。
同様に、生物学的には女性でも心が男性なら、男性であるとするものだ。

すでに、スポーツ競技でこの考えが先行採用されていて、おおかた「元男性」たちに有利になっているし、女性だけの格闘技では選手が大怪我をする「事故」も起きた。

ややこしいのは、たとえば、生物学的に男性でも心が女性で、さらに女性が好きとか、生物学的に女性でも心が男性で、さらに男性が好き、といった場合である。

これで「婚姻」するとなったら、同性婚なのか?それとも?
まぁ、いちいち面倒なことは考えなくてよろしい。
本人同士がよければそれでいい、のである。
これこそが、「自然」である、と。

女性から「不平等」の声が上がっていたけど、とうとう「法律」になったのだ。

選挙結果とは、こういうものだ。

この法律で、最初の物理的な制約の撤廃が計画されているのは、「トイレ」だという。
男性用と女性用を一気に無くす、のではなくて、自分が女性だと思うひとは「女性トイレ」、男性だと思うひとは「男性トイレ」を利用することができる。

本人の意思を尊重した、実に人道的な配慮が素晴らしい。
これこそが、人間、なのである。
むろん、反論があるだろうけど、それは最初からいかがわしい邪念を持ったひとのはずだから、「恥を知れ」という罵詈雑言を相手に浴びせてもぜんぜん構わないし、むしろ推奨される。

コロナが収束して、外国への移動の自由が再開されて、アメリカに行ったら、トイレで驚く、ということではいけないのだ。

ただし、反発する「州」が複数あって、州憲法に違反するとして、連邦法や大統領令の拒否もトレンドになる動きがあるから、アメリカの分断を加速させる効果ともなっている。

明治になって禁止されるまで、わが国の公衆浴場は基本的に混浴だった。
明治の偉いひとたちが、当時ならおいそれとはいけなかった欧米を旅行して、男女を分けることを「文明」と理解してから、「混浴禁止」をした。

でも、欧米に「公衆浴場」はなかったろうから、いったい何を参考にしたのか?

そもそも、『テルマエ・ロマエ』でも紹介されたように、湯を張った浴槽に浸かるという入浴方法を習慣としていたのは、日本人と古代ギリシャ人、それにブータン人しかいないのである。

   

古代ギリシャからローマ帝国に伝播したけど、「ガリア」にはとうとう受け入れられなかった。
ようやく、イスラムが「蒸し風呂」に至ったけれど、浴槽の湯に浸かることはまずない。

アジアでは、「照葉樹林文化圏」という仮説ができたのも、入浴習慣が日本とブータン間でしかなく、「照葉樹林帯」という温暖かつ湿潤な気候帯での伝播とするほか説明がつかない、という事情がある。
熱帯になると、湯ではなく、ガンジスのように、川の水に直接浸かってしまうのだ。

ちなみに、アフリカ大陸のナイル川は、「住血吸虫」がいるために、どんなに気温が高くてもこの川で泳ぐものはいない。

とはいえ、江戸の街における公衆浴場は、基本的に「蒸し風呂」で、「湯女(ゆな)」という性的分野におけるサービスを生業とする女性も勤務していたから、「湯屋」とは「悪所」の隠語でもあるのでややこしい。

『赤穂城断絶』(1978年)の延長にして、深作欣二が映画化したのが『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年、松竹100周年記念)だった。

 

武家の出が設定の歌舞伎とはちがって、「お岩さん」が吉良家に縁のある湯女という設定に驚いた。
討ち入りまでの経済的にも精神的にも苦しい生活が、リアルな「堕落」の物語となったのである。

そんなわけで、いまでも山奥の古い温泉湯治場の一部に「混浴」が残っていて、知らずに入って出るに出れなくなったことがある。
妙齢な方だったけど、目的はしっかり「湯治」という治療目的だと話してくれた。
「三周り(三週間の滞在)」のちょうど中間だったと記憶している。

我が国では、東大をはじめに、国立7大学の医学部に温泉医学の専門コースがあった。
指宿の砂風呂に行ったときは、鹿児島大学の診療所があったし、草津には、群馬大学の分院があった。

すべて「過去形」なのである。

理由は、文部科学省による研究予算の「独占」である。
すなわち、「温泉大国」を自称するのに、内容がないのだ。
もって、温泉は歓楽的「観光」の位置づけと、文系(法学部)の役人が決めたにちがいない。

世のトレンドは、男女の性差をなくすことだから、混浴こそが「日本文化」だと、これも役人が決めるにちがいない。

さては、こんどは、浴室を混浴化させるための「大型補助金」をもって、「Go To」の代わりにするかもしれぬ。

2021年「お雛様の日」に。
なお、旧暦の「桃の節句」は、今年は4月14日ではあるけれど。

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