首相が提唱する、「新しい資本主義」とはなにか?
官邸のHPをみても、よくわからない。
それで、『文藝春秋』本年2月号に寄稿した文章を、やや長いが引用する。
「市場や競争に任せればすべてがうまく行くという考え方が新自由主義である。このような考え方は、1980年代以降、世界の主流となり、世界経済の原動力となったが、格差や貧困の拡大、気候変動問題の深刻化などの弊害も顕著になってきた」
「市場の失敗がもたらす外部不経済を是正する仕組みを、成長戦略と分配戦略の両面から、資本主義の中に埋め込み、資本主義がもたらす便益を最大化すべく、新しい資本主義を提唱していく」
以上、ツッコミどころ満載の文章で、「だからなんなんだ?」という目で読むと、もっと何が言いたいのかがわからなくなる不思議な作文になっている。
そもそも、「新自由主義」の定義からして、おかしいのは、この論法が社会主義・共産主義者たちがいう「批判」のパターンそのものだからである。
「市場や競争に任せればすべてがうまく行く」というのは、「新」ではなくて、「神の手」を発見し「経済学」を生んだ、アダム・スミスの主張である。
すなわち、「古典派」のいう自由主義だ。
「本家本元」の新自由主義の提唱者のひとり、ハイエクにいわせれば、「資本主義」なる用語も、マルクスが「共産主義」のアンチテーゼとして考えついたものだから、「架空」の経済体制をいう。
つまり、ゴールとしての共産主義社会から逆に線を描いた先にある、批判すべき、あるいは、転覆すべき社会を、「資本主義」としたのであって、そこに「資本主義社会」が実在するかは問わない、という驚愕の論理なのである。
この「空想」を、「科学的社会主義」といって、「空想的社会主義」と分けたのであるけれど、やっぱり「空想」は「空想」である。
そんなわけだから、われわれが信じ込まされている「資本主義社会」とはなにか?を問い詰めると、誰もがかんたんに答えることができないほど、じつはよくわからない状態になって、かんがえるのをやめたくなる、という「思考停止」の境地へ誘われるのである。
そんな「前提」で、80年代を新自由主義の時代だと回顧しているのは、サッチャーとレーガンによる、新自由主義が主流になった「事実」を混ぜている。
もちろん、この二人が呼応して推進したのは、ハイエクが主張した「新自由主義」だったから、首相が議論の前提とした「新自由主義」とは別物である。
この二人に、わが国の中曽根康弘首相も加わって、「土光臨調」を発足させて、三公社五現業の解体的民営化を実施した。
ようは、自民党政権がこれをやったのである。
なので、岸田氏の主張は、過去の自民党からの決別、なのかどうか?という話になるはずだけど、そこまでいっていないから、なんだかよくわからないことになるのである。
事実認識として、格差や貧困の拡大、は、わが国国内問題として「顕著」になっている。
しかし、気候変動問題の深刻化は、科学としては、なにも深刻なことは起きていないので、単なる「ポリティカル用語」だ。
そこで、格差や貧困の拡大の原因を、後段では述べている。
それが、「市場の失敗」だと決めつけていることに、このひとの思想の深層が見て取れる。
もしもアダム・スミスが「正しければ」、市場の失敗を自動調整する機能が資本主義社会には内蔵されているはずである。
そのもっとも重要な要素が、価格調整機能だ。
これによって、需要と供給のバランスを「やじろべえ」のようにとるのが、「市場原理」なのである。
だから、ハイエクは、「政府の(余計な介入による)失敗」と指摘したのである。
すると、岸田氏が主張する「新しい資本主義」は、政府がどんどん介入して、市場をコントールするというに等しいから、マルクスが言った通りの「資本主義批判」をもって、共産主義を実現する、と宣言したのである。
これで困ったのは、共産党の方だ。
政権与党である自民党に、共産主義の本質を盗まれた。
岸田政権とは、共産主義・全体主義を基盤とするから、すでにわが国は共産国家になってしまった。
これぞ、わが国の格差や貧困の拡大の原因であり結果なのだ。
そんなわけで、一気に共産化するかと思いきや、なんだかもたもたしているのは、岸田氏が自分の主張の意味を理解しているのか?という、これまた不思議な状態が垣間見られるからなのだ。
そこで、どさくさに紛れて、会社法の改正を提案したい。
株主総会に、労働者代表の出席を義務化して、監査人が監査人報告をするように、労働者が労働に瑕疵がないことを「業務監査」として報告させるのだ。
円満な労使関係が、「株主利益最大化」に直結するのはいうまでもない。
しかしながら、企業内の実態はどうなのか?
株主から委託された経営者が、「三等重役」以下になって、横暴な態度をとっていないか?
これを、株主にいえるのは、労働者代表「だけ」だからである。