受験シーズンである。
大雪などの天候で、人生が左右されることもある。
それで、なにか改善があったかというと、みごとになにもない。
せいぜい、試験開始時間がくり上がる程度で、あとは自己責任とされる制度になっている。
「受験戦争」といわれてこのかた、「受験制度」は受験に「とおったひとたち」がつくっている。
受験にとおらなかったひとは、ひとまず無視される「制度」だから、改善のポイントがかたよることになるけれど、おとなになれば自分が受けるものではないから、関心はうすい。
「制度」というものは「形式的」なものであるから、形式で比較する、ということができる。
しかし、その「形式」が、どうしてその「形式」になったか?ということまでかんがえると、あんがいやっかいな事情がでてくるものだ。
それを、ふつう「歴史」という。
卒業と入学の季節が春なのか秋なのか?
これだけでも、世界標準の「秋」とちがうのがわが国で、「秋」にしようとはする動きがあるけれど、いっこうにそうはならない。
大学受験のための「資格」は、わが国にはふたつある。
「高等学校卒業資格」と「高等学校卒業程度認定試験」(旧大学入学資格検定:大検)だ。
いわゆる、「高卒」と、「高認」という。
「高卒」は、履歴書の学歴に「高卒」と書けるが、「高認」は学歴的には「中卒」となる。
しかし、学歴がどうでもいい世界が「官」にはあって、浪人や留年なく大学在学中の3年生までに「国家公務員一種(上級)試験」を合格してどこかの省庁に入省すれば、「高卒」だけど「トップ入省」と認められる。入省が一日でもはやければ、生涯追い越せない「先輩」になるのだ。
だから、一生懸命勉強して、博士号などを取得してからの合格者は、「うとい」としてバカにされる世界である。彼らは「研修期間」中に外国留学も国費でまかなわれ、修士号や博士号を取得するからだ。
若者の数が減って、これから若年者にとっての雇用需要は増加するとかんがえられるから、採用をかんがえる企業にとって、この「資格」問題は、従来とは逆の採用者側にとってハードルの設定にもなる。
はたらきながらの「高卒」資格は、むかしだったら定時制だったが、いまでは「通信制」もある。
「高認」試験は、年二回、8月と11月に実施される。
しかし、供給がすくないのに需要がたかまるのだから、若者の採用には企業間での競争が発生する。
そこで、「高卒」や「高認」の勉強をどのくらい支援して、企業が結果にコミットする、ことも選ばれることの条件になるかもしれない。
つまり、この支援のためのみえにくいコストが、採用経費になってくるというハードルだ。
「高卒」、「高認」、どちらにせよ、本番の大学受験は、やっぱり一発勝負になるのが、わが国の無情であって、しかも、併願すれば受験料がばかにならない金額になる。
文科省という行政の役所が、許認可権を独占し、政治をもって認可させようとした獣医学部を、獣医業界からのはたらきかけでこれを阻止し、「政治の理不尽な介入だ」と反発したのが、なぜか政治の問題にされる国になっている。
行政府を監督指導するのが、選挙でえらばれた政治家の仕事でもあることを、なんと否定してしまうことになるのに、だ。
その役所が、権限を拡大するほど、天下り先がふえるという法則ができて、とうとう自分のこどもをムリクリ入学させるという問題まで発覚した。
これを許した大学は、拒否するとどんな報復があるかしれないから、もはや脅迫であったろう。
本人が退職しようが、制度はのこる。
東京の一極集中はいけないから、東京の大学をムリクリ郊外に移転させる「政策」は、政治家の発案ではなく、役人の勝手な判断だ。
こうして、助成金をやるかわりにいうことを聞けという手法がまかり通るから、大学が自主判断できるすくない分野の「受験料」が値上がりするのである。
これとても、役人のたなごころの上で踊らされている。
こうして、受験生のためでもなんでもなく、役人が肥えるために利用されている。
すなわち、だれのためか?という「マーケットイン」の思想が皆無なのが、日本の教育制度になってしまった。
「教育の荒廃」という問題を、文科省になんとかせよというのは,泥棒にもっとやれというようのもので、まったくの筋違いである。
さいしょに、文科省を廃止すべきなのだ。
80年代、英米両国は、日本に対抗するため日本を研究し、日本の初等教育制度をずいぶんまねたが、その時期、あろうことか日本の文部省は、手に負えなくすさんだ英米の教育制度を輸入してそのまま導入したのが、「ゆとり教育」という自殺であった。
欧米のやり方がすべて正しいとはいわないが、かれらの大学受験方式は、たいがいが「受験資格試験」の点数と、学校や地域生活での活動内容、そして、志望動機や自分の将来像を手紙に書いて学校に送付すると、合否の通知がやってくるようになっている。
そして、「受験資格試験」の受験料は数千円で、しかも何回も受験でき、そのうちの最高成績の点数を記載すればよい。
さらに、大学によっては「点数」よりも、別の項目が重視されることがあるのは、「のびしろ」をみているのである。
「教育機関」として大学をみれば、卒業時のレベルが重要なのであって、入学時のレベルではない。
「やる気」という「のびしろ」があれば、入学させても学校に損はない。
なぜなら、欧米の私立大学は、わが国の数倍どころではない授業料が請求されるからだ。
ちなみに、アメリカには連邦設立の「国立大学」は存在しない。
日本にはない、欧米のやり方で、幹部社員や幹部社員候補の人材を採用するばあいには、かならずトップによる面接がある。
社長面接のことだ。
「企業はひとだ」という社長は、日本にもたくさんいるが、面接すらしないで人事に丸投げの会社はおおい。
こういう会社に、へりくだって入社しても、たいした人生にはならないとかんがえるのが妥当である。
おそらく、一回だけのチャンスをものにしたことだけが人生のよりどころのひとたちがトップの経営者になっているのだ。
その程度では、21世紀は生きていけない。