トランプ「弾劾失敗」の残念

訴追した連邦下院の持ち時間は、100%消費したのに、弁護側の持ち時間はたっぷり半分も余して「結審」し、判決は57対43で過半数はこえたけど、憲法規定の「2/3」に届かず、「無罪」となった。

「有罪」には、17人の共和党側からの「裏切り」がいないといけなかったし、裁判開始にあたって、「違憲」の動議があり、この議決の裏切りは6人しかいなかったから、結果はみえていた。

弁護側の初日、ひとりの弁護士の論点が「変だった」ため、この時点で裏切りがひとり増えて、さらにもうひとりが加わって、当初の5人から7人になった。
このひとたちは、「地元」の共和党から、激しい批判をあびていて、「辞職勧告」も地元共和党から決議されはじめている。

アメリカの選挙は、「党内の予備選挙」を経てから正式の候補者になる。
なにも、大統領選挙だけの仕組みではない。
これが、「近代政党」の「近代」たるゆえんだから、わが国の政党は、この意味で「全党」が近代政党ではない。

裏切り者は全員、次回の選挙で消えゆく運命を自分で選択したことになった。

すこしさかのぼって「外野」の状況を解説すれば、弁護団への「脅迫」があったのが、初日の「不調」の原因とみられている。
144人の憲法学者たちが、連名で弁護団の弁護士資格の「剥奪」をいいだしたのだ。
この筆頭に、元ハーバード大法学部長がいる。

しかしながら、民主党員だけど現職のハーバード大法学部教授が、違法な脅迫である旨の警告を発した。
筋を通すひとが残っていた。
ハーバード大学の名誉にも貢献したことだろう。

それにしても、「残念」なのは、弁護団が持ち時間を使い果たさなかったことにある。
トランプ氏の、見た目とはちがう上品さがここにある。
「完膚無きまで」相手を追いつめない。

「無罪」を勝ち取るだけが、この裁判の目的なのか?
仮に「有罪」になったら、被選挙権の喪失だけでなく、場合によったら別件で捕まって、身柄拘束する挙にでないともかぎらないのが、相手の本性なのだ。

何度も書くが、社会主義者=かならず全体主義にするひとたちは、自分たちが「理論的に正しい」と、その理論・思想を一方的に信じているので、歯向かうものを容赦しない、という特性をもっている。

あの、昭和元禄まっさかりの1971年から翌年までに、仲間を連続リンチ殺害した、「連合赤軍」だって、あるいは過激派の「内ゲバ殺人」だって、おなじ行動パターンなのだ。
自分しか正しい者はいない絶対者だから、歯向かうものは殺してもいい。

これが、「無神論」なのだ。
絶対神はいない。
なぜなら、自分が絶対神だからである。
これが、国家レベルに組織化されると、指導者が神格化される理由だ。

すなわち、そんな相手との闘いなのだから、弁護側は徹底的に潰さないといけないはずだ。
にもかかわらず、これを、「しない」おっとりさが歯がゆいのである。

例によって、トランプ氏は弾劾裁判中も、自身はゴルフ三昧をやっていた。
それで、記者に「大丈夫か?」と聞かれても、余裕綽々ではあった。

強い意志と信仰をもつ彼は、けっして自分を信仰の対象とはしない。
絶対神が彼のなかにいるから、政治的余裕なのではなくて、「神のご加護」を本気で信じているのだということが、ようやくわたしにもわかってきた。

すると、「無神論」あるいは、「近代合理主義」(神の存在に懐疑的)のひとたちからしたら、トランプ氏の存在が、きっと不気味になるはずだ。
それが、政治的になにかを企んでいる、と勘ぐるしかなくなるからだ。
けれども、彼の企みとは、神と共にある、ことだけなのだろう。

そうしてかんがえると、イエス・キリストが説いたように、隣人を愛し、叩かれたらもう一方の頬を差し出すがごとくの態度の意味も、一貫性のあるものとなる。
なるほど、アーミッシュたちが、救世主だと認定したわけがわかるのだ。

さてそれで、これから、なにが起きるのか?

トランプ支持者のなかにも多数いるはずの、「近代合理主義者」たちの期待に、どのように応えるのか?
民主党の、白を黒とする企ては、トランプ弁護団によって粉砕された。
証拠提出された「ビデオ」の、悪意ある「編集」こそが冤罪づくりという犯罪行為であったと論破されたのだ。

しかし完全論破されながらも、議会の過半数が「有罪票」なのである。
このモヤモヤを、どうやって晴らすのか?
次は、スッキリさせることがどうしても必要になる。
あたかも、キリストが奇跡を起こすようにだ。

一方で、民主党の残念は、どんな形で歪むのか?
最初から歪んでいるから、もっと歪むことは確実だ。
犯罪を正義にしてでも、何が何でも、トランプ氏をおとしめる。
それこそが、彼らの行動原理そのものだから、止まりようがない。

あたかも、時季はずれの、「過越祭」のようだ。
どちらの陣営も、ドアに自陣のマークをつけろ、と。
さもなくば、皆殺し、である。
さては、どちらを選択すべきかが問われだした。

モーゼの警告に従わなかった、エジプト王の長男が息絶えたごとく。

他民族の宗教祭りが、わが国にもやってきた。

わが国も病気を利用して、政府の意向に従わないと「科料」をくらう時代が到来した。それよりも、だれも「憲法違反」をいわないから、ほんとうは憲法が殺された。
感染防止に効果がないことは承知でも、効果があることにするのは、国民に命令したいからである。

どちらを選択するのか?
自由か?
強制か?

けれども、年内にあるはずの衆議院選挙(10月に任期切れ)で、選択肢がない、という絶望的困ったがある。

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