マスクをしたいひとたち

寛容なのか不寛容なのか?
イオングループが接客にあたる従業員のマスク着用を「禁止」した、というニュースが配信された。

「風邪」にかかってもいいのか?
「安心して勤務できない」とかいう、従業員からの「意見」もあるようだが、「広報」によると、会社への正式な抗議にはなっていないようである。

「禁止」という表現を記事どおりに会社がつかったのかも未確認だから、ほんとうなのだろうか?とうたがってしまう。
べつの表現をしたものに、「意味がおなじ」だとして記事に書いてしまってはいないか?
できれば「全文」を掲載してもらいたかった。

一般的な「マスク」に関しては、このブログで何度か書いている。

「接客業」にあって、客前でマスクを着用したままで「よし」とする感覚をいかがかとおもう、という立場から書いてきたが、今回の記事は、「禁止」がいかがかという立場から書かれている。
これは、「新鮮」なおどろきだ。

どういう意図なのか?
どういう感覚なのか?
記者に口頭で不満を表明した従業員がいる、という事実だけを書きたかったともおもえない。

「記事になった」かぎりにおいて、取材した記者ひとりのことではなく、それをみとめた上司なりが許可しなければ、商業的な「記事」となって世間に配信されることはない。

だから、興味深いのである。

まず確認したいのが、マスクの「効果」である。
本来は、風邪やインフルエンザに「感染したひと」が、まわりの迷惑にならないように着用するものだった。

しかし、これらのウィルスは一般的なマスクの材質では、呼気があみめを通過してしまうから、役に立たない。
だから、健康なひとにとっても、風邪やインフルエンザのウィルスを吸い込むための、「予防」にもならない。

つまり、じぶんは病気にかかっています、という合図をおくって、他人に注意を喚起するというのが、第一の役目になったのだ。

それでも、一日中マスクをしていれば、なんだか「黒ずんでくる」のは、外気がさまざまな物質に汚染されていて、比較的おおきな粒子がマスクでとまる。
けれども、おおかたマスクなしでも「鼻毛」がこの役割をもっている。

あえていえば、冬の太平洋側は空気が乾燥するので、マスクをすることでじぶんの呼気の湿り気で喉を潤すことぐらいが、効果なのだろう。
さいきんでは、監視カメラの人物特定から逃れるため、ということもあるが、マスクの着用程度でAIはだませない。

これからわかるのは、他人のための注意喚起だったものが、じぶんのための湿潤に変化していることだ。
そして、科学が軽視されていることもみえてくる。

科学的にかんがえれば、一般に購入できるマスクはほとんど無意味だからだ。
けれども、ここに「商機」があって、メーカーによる「文化」が形成されているのである。

もちろん、メーカー努力だけでなく、その背景に「じぶんかわいさ」が価値観になければならない。
そして、それが「お互いさま」にくっついて、じぶんがしようが他人がしようが「勝手御免」になれば、マスクの着用がマナー違反にならなくなるばかりか、他人からの禁止命令にすこしばかり反発するだけですむようになるのである。

これが、現代日本における「現役世代」の「常識」だ。
だから、「記事」になったのだ。

そういえば、たまにではあるが、旅館やホテルでも「禁止」の掲示をみかける。
接客現場に、「禁止」ポスターを貼るのは、どうみても従業員向けではなくて利用客向けだ。

たんに日本語のつかいかたが下手なのではなくて、あいてに命令することに違和感がないのは、「いつも命令されている」からだろう。
たとえば、小公園でも「球技禁止」とか、ショッピングセンターに「ローラーシューズ禁止」とかが貼ってある。

「球技禁止」は、老人優先社会になったからだろう。
「あぶないのでボールをけったりなげたりしてあそんではいけません」とあるのは、子どもがあぶないのではない。
こういうひとにかぎって、幼いころのはなしになると球技をしていたはずだ。

「ローラーシューズ禁止」のおかしさは、じぶんたちで売ったものを、履いてくるなという自己中な発想があるからである。
ならば、「当店ではあぶないローラーシューズの販売はいたしません」と書けばよい。

そういえば、こないだの『魔笛』公演では、弦楽器の演奏者がマスクをしたままで全曲を演奏していた。
オーケストラの本番で、演奏者がマスクをしているのを生まれてはじめてみた。

同僚も注意しないばかりか、指揮者もなにもいわないし、休憩後もかわらなかった。
けれど、カーテンコールでオーケストラが起立して挨拶するときに、このひとははじめて素顔をみせた。

マスクをしたままでは、やっぱり「まずい」とおもったのだろう。
年齢的には40代のなかごろか?
どうやら、このあたりが「境界線」のようである。

個々人がバラバラになって、じぶんのため、をどんどん追求すると、ついにそれを国家の役割に変容させることで全体主義は達成できる。
いまは「まさか」の段階だが、国家の命令に全員がそろってしたがう、全体主義への準備が、ゆっくりと、しかし、着実に進行している。

マスクの着用は、「禁止」でも「勝手」でもなく、「マナー」や「エチケット」としてとらえることが肝要だ。

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