小学生の頃の、『ロボットくんのハイキング』(コロムビア)という歌がなんだか耳についているのは、モダン・バレエをやっていた妹が神奈川県立音楽堂での発表会で踊った曲だからだろう。
頭にアンテナを付けて、キラキラした銀色系の衣装で、ガクガクと歩いていた。
中高年にはいまもあんまり変わらない、ロボットのイメージそのものだった。
上述の歌を鑑賞したいなら、国立国会図書館で聴くことができる。
『マグマ大使』はロボットなのか何なのかよくわからいでいたけれど、『ジャイアントロボ』は、そのものだった。ただし、人間(少年)がその都度命令することになっていたから、『鉄人28号』と大差ないようにもみえる。
人間型ロボットの「完成形」を観たのは、1978年公開の第一作『スターウォーズ』の「C-3PO」が最初だったとおもう。
「親友」という設定の、「R2-D2」の方がはるかにロボットらしいけど、ローラーの脚で砂漠とかどこにでも滑らかに移動できるのが不思議でもあった。
もちろん、「人工頭脳(AI)」としては、カメラと音声それに計算ユニットとして表現された、『2001年宇宙の旅』(1968年)がある。
もっとも、この作品を初めて観たのは、何度かあった「リバイバル」で、高校生の頃だったと記憶している。
小学校低学年のころに、初公開された映画とは到底おもえない映像美に驚愕したものだ。
原作者のアーサー・C・クラークが、試写を観てあまりにも原作と違うことに怒ったという話は、原作を読んで「なるほど」と合点した。
彼は、イギリス人で、スリランカの高級茶畑で有名な地域に移住していて、都会のコロンボに出てきては宿泊した、「ゴール・フェイス・ホテル」のロビーには胸像が置かれている。
ちなみに、このホテルには1921年、皇太子だった昭和天皇も滞在している。
さて、現実のロボット開発はどうなっているのか?
日本車の工場で、溶接工程に導入されたロボットが産業用ロボットでもっとも有名になった。
これは、天井からの「腕だけ」だったから、人間型を期待したらいけない。
もう二足歩行ができるようになったし、四足のものはかなりの運動能力をもっていて、その速度だけでなく、段差をものともしない。
それで、一部は軍事用に開発が進んでいる。
こんなものに殺されたくはない。
ただし、これらのロボットには、大弱点がある。
それは、「脳がない」ことだ。
プログラムされた通りに動くけど、人間の言語によるその場の命令も理解できない。だから、人間からの音声命令を理解して戦う、「ジャイアントロボ」は、いまも実現化できていない「超最先端」なのである。
集積回路の処理能力は確実に高まっているけれど、それは、「速い」ということに集約されているので、単純化すれば以前から「反応が速くなった」にすぎない。
つまり、「SF」作家が表現した、人間型で「C-3PO」のようなロボットは、「F:ファンタジー」のままなのである。
昨年の「ビジネス書大賞」を受賞した、『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』は、ファンタジーであることの理由を解説している。
著者の専門は、数学である。
すなわち、数学の限界を教えてくれている。
このことは、「科学の限界」をも意味する。
するとこのことは、じつは「人間の可能性」の証明でもある。
人間にはあらゆる可能性がある、というのは、ファンタジーではない。
このときの「人間」とは、その「頭脳」を指す。
いわゆる、「脳科学」が進んでいるとはいっても、全部が解明されたわけではない。
人間の「思考」こそが、唯一の理想的コンピュータの結果なのだ。
あらゆる経営資源のなかで、「ひと」だけが価値を創造するということの真実がここにある。
だから、どんな職業でも、ひとの能力を最大化させる方策を常にかんがえることの継続が、結果を支配するのだ。
「ビジネスは結果である」とはいうけれど、そのための「アプローチ(手順)」が正しくないと、よい結果にならないし、なりえない理由である。
日本経済衰退の最大の理由がここにあるとかんがえる。
だれが「ビジネスは結果」だといいだしたのか知らないが、「ビジネスは結果」だという「結果がある」ことを忘れては、実務はできない。
すなわち、適切な目標設定と、その達成のための適切なアプローチがなければ、「目標通りの」結果をだすことはできない。
わたしは、部下に「ビジネスは結果」だと言い切れるひとは、ビジネス・マンではないとかんがえている。
間違いなく、よきビジネス経験や体験を積んでいない。
もしそのような経験や体験をしていたら、かならず「ビジネスは段取りだ」というはずだからである。
囲碁や将棋の勝負師たちには、「一手」を打つたびが「ビジネスの結果」であって、その集積が「勝敗を決する」のだ。
すなわち、「考慮時間」のなかでなにを思考しているのか?ということが「すべて」なのである。
いかなる名人をコンピュータが負かしても、コンピュータは「一手ごと」での「最適」しか計算しないしできない。
どのタイトルをいえばいいのかわからない、羽生善治氏は、電脳将棋を「人間から見ると時系列がつながらずに全部が点」、「非常にまばらに見える」と、まさに「デジタル」の本質を盤面に見ている。
これぞ、「人間」なのである。