拝火(ゾロアスター)教の流れをくむ、「聖火」リレーがはじまった、とニュースにある。
興味がないものだから、オリンピックで記憶があるのは、ロサンゼルス大会(1984年)ぐらいまでである。
その後の、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京/香港、ロンドン、リオデジャネイロ大会は、ほとんどなにも観ていないので、当然だが記憶もない。
冬の大会は、札幌(1972年)以外、同様に記憶がない。
オリンピックや各種スポーツ競技に興味のあるひとからは、相手にされないか、ばかにされるだろうけど、仕方がないことである。
趣味にしている「クレー射撃」は、世界選手権のDVDなどを購入して観たことがあるけれど、ぜんぜん上達の参考にならないのだ。
レベルがちがいすぎるからであるけれど、一流選手の「構え」には基本の「きの字」もなく、その独特さは真似もできない。
プロ野球は、横浜居住だから、ではなくて、本拠地が川崎の時代から、「大洋ホエールズ」のファンだったのは、その試合が「大味」で、いつも負けるけど勝つときは「バカ勝ち」のメリハリが好きだった。
それに、川崎球場にいけば、かならず外野方面での「けんか」が観られた。
酔ったおじさんが、他球団ファンに「からむ」からである。
このワイルドさ。
すると、警官隊がやってきて、おじさんを連れていく。
おなじひとではないだろうに、「かならず」酔ってけんかをするひとがいたのである。
それでも魚肉ソーセージとか、大洋らしいお土産をもらえた。
横浜にやってきたら、スマートな大洋ホエールズになって、観客もスマートになった。
だから、けんかの現場を観ることはなくなった。
弱小広島の黄金時代を築いた、古葉監督が、横浜にやってきて「細かい野球」をやろうとしたけど、できなかった。
もっとも、大洋ホエールズをつまらない時代にしてくれた。
オーナー会社が大洋漁業でなくなってから、ホエールズの名称もとれた。
そんなわけで、プロ野球にも興味がうせたのである。
さて、いま、ネット界隈では、「ロンドンオリンピック開会式」が話題になっている。
いったいぜんたいどういうことかといぶかったけど、せっかくだから探してみたら、4時間にわたる動画がのこっていた。
2012年、7月28日「公式」のライブ配信とおもわれる。
再生回数は、1430万回を超えているけど、そんなものか?
いいね、10万。逆は9000弱。
女王陛下の入場もふくめて、さまざまな行事がとりおこなわれているけれど、だんだんと不可思議な演出になっていく。
たまたま、だとはおもうけど、空撮されているスタジアムの電光装飾が、なんだか見馴れてきた「コロナウィルス」とかさなる。
そして、どういうわけか、フィールドにたくさんの白いベッドがあって、そこに子どもたちがパジャマ姿で跳ねている。
看護師の姿をしたおとなたちが、こちらも踊っているのである。
ところがそこに、『仮面ライダー』のショッカーのような黒いひとたちが這うような不気味な格好であらわれて、なんだか『ばいきんまん』のようなのだ。
すると、とあるベッドが子どもごと空中に吊り上げられて、その横には巨大な悪魔が立っている。
もっと不思議なのは、ジョンソン首相にそっくりな人形も、ベッドの中で寝込んでいるのだ。
このとき、彼はロンドン市長で、オリンピックの準備をしていたのだった。
だから、でもないが、現職市長をイギリス風にからかったというのが当時のこの演出なのだろうけど、その後に首相になって、コロナで生死をさ迷ったこととこのシーンが妙につながるのである。
祝典としての開会式が、どうしてこんなに不気味なのか?
あまりにも、グロテスクなのである。
日本語でこの映像をどう解説していたのか?
さらに、このとき、日本選手団は飛ばして放送されている。
「ジャマイカ」のつぎに日本選手団の入場行進がちらついてみえるけど、そのつぎが「ヨルダン」の紹介になっている。
もっとおおきな「事件」は、トラックを行進して周りながら、日本選手団は「会場外」に誘導されたのである。
これに、JOCは「困惑した」と、別の動画にある。
ぜんぜんしらなかった。
さまざまにいわれているのが、「放射能汚染」が理由だという説があり、真相ははっきりしていない。
なお、ドイツ選手団も封鎖されたということがあったので、「日独」という意味深な見方もある。
興味深いのは、イギリス人のイギリス人たる「常識」や「教養」がテーマになっていて、それを解説なしにわれわれはにわかに理解できない、ということである。
だから、ぜんぜんユニバーサルではない。
むしろ、大英帝国という「ローカル」の強調こそが、「らしさ」をつくる要因であると、あらためてわかるのだ。
はたして、イギリス人のひとりよがり、といって批判はできない。
東京オリンピックの演出はどうなるのか?
現代の「日本らしさ」とはなにか?
「ハレ」ばかりでなく、「ケ」を表現するのか否か?
それを、国をあげての演出としてどうするのか?
気になるのは、ここだけなのである。