ノーベル経済学賞というのは、「なんちゃってノーベル賞」なのである。
この「賞」は、ノーベル財団ではなくて、スウェーデン国立銀行が設立300年を記念して、かってに創設した経緯がある。
それだから、「遺書」にもないので、アルフレッド・ノーベルの子孫は認めていない。
勝手に使うなー!
ノーベルにしてノーベル賞から「疎外」された、人為的な仕組みの社会的定着の例である。
正式には、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」とか、「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といって、「ノーベル経済学賞」とはいわないのが「筋」である。
でも、なんだか長いので、「ノーベル経済学賞」といってしまうのは、日本人のズボラな性格がそうさせている。
それに、日本人の受賞歴が、ノーベル賞のなかで、経済学賞「だけ」ない、という恨みもあるのかもしれない。
しつこいけど、「ノーベル経済学賞」は、ノーベル賞のうちに入らないけど、だ。
とはいえ、経済学者にとって、やっぱりこの賞の権威は認めざるをえないから、「欲しい」と願うのは人間の性である。
しかし、昨今のこの賞の受賞者が、アメリカ人あるいはアメリカでの研究者に偏っているのは、「経済学」が、「アメリカ経済学」になったからでもある。
日本の大学における「経済学部」が、「文系」に属するのは、かつて全盛を誇った、「マルクス経済学」を「経済学」としていたことの名残である。
たしかに、マルクス経済学は、人文学的要素すなわち、宗教に近いのであるけれど、当人たちは「科学的」と自称して、これを、「社会科学」といっていた。
その「非」科学性は、ソ連東欧の崩壊で証明されたため、大学経済学部における「拠点」と「行き場」を失ったひとたちが、「地球環境」やら「持続可能社会」とかという、「似非科学」をもって、マルクスほんらいの「非科学性」を保守することでの、妙な勢力を確保することに成功した。
でも、これは、横滑りのような「シフト」をしたので、二度と「経済学」の本流とはなり得ないところに特徴があって、それゆえに「環境学」とか「環境法学」とかいう、得体の知れぬ「学問分野」を開拓もした、涙ぐましいムダな努力もある。
前にも書いたが、早稲田大学が、経済学部の入試に数学を加えるという「英断」がニュースになるのは、数学を基礎にする世界の経済学からすればまことに不思議な現象である。
ちなみに、経済学に数学モデルを多用し、「新古典派統合(新古典派とケインズ経済学の統合)」で一世を風靡したのは、あの定番教科書『サムエルソン経済学』の著書で有名な、ポール・サミュエルソン(1970年受賞)であった。
バブル崩壊から30年。
数々の経済学賞受賞たちが、日本経済の再生モデルを提示してきたものの、どれひとつとして役に立たない不思議がある。
また、日本を経済モデルの実験場としたいという誘惑にかられた受賞者も多数いた。
アメリカ人の受賞者たちが、ソ連崩壊時の体制変換に、経済の自由化というソフト・ランディングに失敗したのは、歴史的にロシア人が自由主義経済の経験がなく、いわゆる「資本主義の精神の欠如」、という資本主義成立の基盤ともいえる大問題を無視したからであった。
これは、生まれながらにして、「資本主義の精神」をたたき込まれる、英米人を中心としたひとたちには、うっかり忘れてしまうほどに「当たり前」のことなのである。
そんなわけで、わが国の経済モデルを受賞者たちがどんなにいじろうとしてもうまくいかないのは、わが国が「なんちゃって資本主義」だからである、と書いた。
いまや、はっきりとしてきたのは、社会主義へ邁進しているのがわが国経済なので、英米の自由主義経済を基盤とする経済学が、わが国でぜんぜん役に立たないとかんがえることが合理的である。
さてそれで、2020年のノーベル経済学賞は、「オークション理論」だった。
あたらしいオークション形態もふくまれる。
ポール・ミルグロム、ロバート・バトラー・ウィルソンの両教授である。
ここに、「電波オークション」もある。
いま、世界の先進国で、電波オークションを「やっていない」のは、社会主義のわが国「だけ」になっている。
興味深いことに、わが国のテレビやラジオは、この「受賞」の「中身」を詳細に報道することも「なかった」のだ。
自分たちに「不都合」なことは、報道しない自由がある、という自主的な報道管制をここでも実施した。
あたかも、小学校からの算数や数学の授業に、電卓を使わないがごとくの、わが国の「かたくなさ」は、みずからを世界標準から遠ざけている。
ならば、ソロバン教育だろうと思うけど、これもしない。
すなわち、あらゆる科学の基礎となる、数学を苦手とする「文系」を大量生産し、それでいながら、「科学技術立国」とは、語るに落ちる。
優秀でない日本人をつくって、社会を貧困化させ、よって暴力革命を成功させたい。
ノーベル経済学賞を受賞する日本人は、永遠に出てこない。
それが、国家目標なのだからである。