誰が「中間管理職」なのか?といえば、あんがいと「幅広い層」を指すのだ。
それは、「肩書き」だけで判断する場合もあれば、組織上での「部下」あるいは「下部組織」の有無を問うこともある。
けれども、一般化していえば、経営層以外で「長」などの役職あるいは資格があって、できれば部下がいるひと、のことをいう。
わたしが勤務していた会社の場合、長くその制度上、係長までは労働組合員という位置づけであったために、「新任係長研修」の場で、「管理職昇格おめでとう」と講師がいってもピンとこなかった。
けれども、わが国の「労働組合」が発足した「終戦直後=占領中」の歴史をみれば、「課長級」も労働組合を組織したかあるいは一般組合員になったという事実がある。
このことと、「公職追放」との関係は密接で、国家総動員体制で民間企業もお国に奉仕した「報国思想」から、「職域奉公」というかんがえ方が常識になっていた。
これを、「悪く言う」のは簡単だけど、あえて「良く言えば」、「企業は一家」だったのである。
このとき、経営者は「家長」として振る舞うのが常識でもあったから、奉公先・勤務先の、「職場環境」は、家長の家長たる資質に左右されるのは当然で、それをまたテクノクラートたる「番頭」が支えたのであった。
だから、パターナリズムによる「人治」が優先されていた。
それゆえに、「手に職がある=職人」は、自身の技術力に自信ができる「熟練工」ほど、独立心が強く、勤務先の企業への忠誠心は薄くなるので、気に入らなければ何度でも「転職」したのがふつうであった。
それが、「変化」したのは、経営者の力量が高まったから「ではなく」て、工業機械の性能向上による、「非熟練工」でも十分な時代になったことによる。
それで、職場の原始性が残った「庖丁人=板前」は、ずっと後になっても「包丁1本」あれば、職に困ることがなく、「流れ板」になっても生活ができたのだった。
そんなわけで、大企業の課長職が労働組合員になる、という事態の根源に、公職追放で家長がいなくなって跡をついだ「三等重役=同僚」たちが、大混乱の戦後社会でのビジネスが満足にできないというハンデもあったけど、急速なインフレで「喰えない」という現実を盾に、そのお粗末さに反抗したという意味があった。
その「表層」が、「生活給」という概念として、わが国の賃金制度のもとになったのである。
したがって、戦前の「労働争議」と、戦後の「労働争議」とは、下地となる問題の意味がぜんぜんちがう。
とくに戦後の「労働争議」を、政治思想的に煽ったのはGHQの「本音=日本弱体化」でもあったので、その「サヨク性」が長く日本社会の基礎をなす、いわば「底流:通奏低音」に仕向けて成功したのである。
それが証拠は、1938年(昭和13年)に、アメリカで出版されて、「近代経営学の祖」といわれる、チェスター・バーナードの名著『経営社の役割』における、「付加価値創造」の説明にある。
経営者も労働者も、それぞれ「別の目的」があって企業にある。
しかし、マルクスが「宣伝」したように、これら両者は「対立」するのではなくて、「協働」によって付加価値を高めれば、それぞれの「目的達成が可能になる」と論じたのである。
経営者は企業利潤の最大化が目的で、労働者は賃金取得の最大化が目的だ。
この「別々の目的」が、「付加価値創造」という「一点」だけで「合致する」ということの意味は、あまりにも重要な「発見」だった。
なお、付加価値の計算には、「賃金=人件費」が、「含まれる」ので念のため。
さてそれで、わが国企業の特徴に、「社内昇格」という経営者になるための「制度」がある。
よほどの場合でないと、企業外部から経営の専門家を呼んできて、トップに据えるという「習慣がない」のだ。
ゆえに、将来の経営者層は、いまの労働組合員の中にいる。
すると、労働組合は、付加価値創造についての強い意志を、組織内で浸透させなければならないはずだ。
さすれば、バーナード理論の実現が可能になる。
アメリカの優良企業が、あんがいと(かつての)日本企業の真似をしているのは、労使対決では企業活動が活性化しないから、だけでなくバーナード理論の追及のためである。
それが、「日本的経営システム」の強みだと知っている。
だから、ライバルの日本企業に、ぜんぜんちがう「経営システム」を輸入・導入させたのである。
こうして、日本企業は見事に「弱体化」した。
すると、やっぱり「経営者」の不勉強が目立つだけでなく、その「家長」としての「資質」もないのは、進化の必要がない、という「経営層=勝ち組」の側の「絶望的」な精神の貧困があるからである。
となれば、現場と経営層の「中間」にある、「管理職」の「悲惨」は、まるでかつての「小作人」のような「制度」によると理解できる。
しかして、徳川時代から敗戦まであった、「五公五民」の収奪制度が、いまや「国民負担率」に言葉を変えて、実質「六公四民」の、江戸期なら一揆が起きておかしくないまでになっている。
この「従順さ」こそが、「奴隷化」の国的達成を意味するのである。