「ミュージシャン」で人格破綻者といえば、リヒャルト・ワーグナーを第一人者と呼ぶべきだろう。
しかし、彼の天才は、「作曲」に発揮されて、ピアノが弾けなくとも「絶対音感」によって数々の大曲をつくるばかりか、その多くが「傑作」なのであった。
劇場から劇団・オーケストラに入れあげた皇帝が、とうとう国家財政を破綻させるに至ったのも、ワーグナーの「魔性」がそうさせたにちがいない。
いまにつづく、夏の風物詩「バイロイト音楽祭」こそが、その名残である。
音楽界を支配したワーグナーとその一派は、反対派への攻撃に勤しんだけど、それはなにも「音楽界」に留めていたわけでもないのは、国家の破綻が示すとおりだ。
とりあえず、音楽界における「被害者」の筆頭は、グスタフ・マーラーだろう。
ユダヤを毛嫌いしていたワーグナー夫妻は、ユダヤ人青年の才能を知っていながらも、いじめ抜いて、悩んだ挙げ句にとうとうキリスト教(カソリック)へ改宗したけど、まだ許さなかった。
「元ユダヤ野郎」というわけだ。
それ故に、マーラーの壮大な交響曲が奏でる「厭世観」の起源を探りたくなるのは、当然だろう。
ワーグナーが亡くなってから生まれた、アドルフ・ヒトラーは、はなからワーグナーの楽曲が大好きだった。
それで、自ら皇帝を気取ってもいた。
おなじ「アドルフ」のフルトヴェングラーは、プロパガンダの天才ゲッペルスが企画した、ヒトラー誕生日演奏会で、ベートーヴェンの『第九』をベルリンフィルで演奏し、音楽に陶酔した指揮者の才能は、「歴史的名演」という「不名誉」を演じてしまった。
この模様は、ネット動画にあるから、ご覧になった方もいるだろう。
どうして、ヒトラー誕生日演奏会で、こんな名演奏をしちゃったの?
このひとは、「舞台」だけが「世界」だったからだろう。
世俗の余計なことを全部放棄して、没頭してしまう。
やっぱり一種の「人格破綻者」だったのかもしれない。
それで、フルトヴェングラーの『第九』といえば、「バイロイト」での「名演」も語り草になっている。
こちらは「録音」が、動画サイトにある。
四楽章最後のコーダの振りが速すぎて、名人ばかりの「バイロイト記念・オーケストラ」の弦があれよと「滑って」しまう。
けれども、終わってみれば野外会場にあって割れんばかりの拍手が記録されていて、その「ノリ」の興奮は現場にいないと経験できないものだったろう。
ナチスの政治宣伝に関与したとして、戦後のフルトヴェングラーの立ち位置は、「社会的制裁」となって返ってきたが、彼の「音楽家」の才能がやっぱり人々の心を癒やしたのであった。
それでもって、「ドイツの良心」ともいわれた。
指揮者という職業に「だけ」徹底的に忠実であったことが、理解を得たのである。
依頼者が誰であろうが、やるからには最高を目指し、それを観客に提供すると決心しているのは、職業倫理の理想であると。
こないだ発覚した、オリンピックの開会式における「楽曲」をつくったひとのスキャンダルの「数々」は、自らが蒔いた種を自ら刈り取った形になった。
10代やら20代でやったことが、時間をかけて返ってきたが、悪びれずに語ってしまった(雑誌記事にもなった)のは、まさに傲慢から生まれる「心の隙間」であろう。
わたしは、このひとの名前も楽曲も聴いたことがないけれど、才能あってのことだろうから、それだけは惜しいと思う。
こんどは、社会的制裁を受ける立場になったのは、やったことの裏返しだから仕方がない。
それが、「倍返し」以上になるのは、本人の知名度に比例する。
さすれば、知名度が上がった本人には、過去の「些事」であったにちがいないのだ。
でも、ワーグナーやヒトラーに到底及ばない「支配度」だから、こんどは遠慮も忖度もない、「完膚なきイジメ」が社会的にやってくる。
「ホリエモン」がツイートしたように、もう二度と彼や彼の曲が世間に出て来ることはないだろう。
その意味で、このひとは、社会的に抹殺された。
そして、社会的に抹殺することを「正義」とするのが日本社会なのである。
さてそこで、わたしが気になることが一つある。
それは、抹殺のやり方が「組織的」だということだ。
このことは、組織的に不買運動が起きるという意味ではなく、放送や音楽業界のなかの企業組織が率先して抹殺するという意味をいいたい。
つまり、「それでも」才能を認めているひとたちが「欲しい」と思っても、市場にない、ということを指摘したいのだ。
「選択の自由を許さない」という対応が気になるのである。
そうかと思えば、今度は「いとこ」が出した「擁護らしき」ツイッターが炎上し、よせばいいのに「謝罪」して「削除」したら「アカウント閉鎖」までした。ネットで「やってはいけないこと」を連発したから、その無知か慌てぶりが「凄い」という評価になった。
おそらく、上述のような「正義」についての疑問を言いたかったのだろう。
こちらさまは誰かといえば、やっぱり「音楽プロデューサー」というけど、わたしの世代なら『コメットさん』の九重佑三子と歌手の田辺靖雄の長男だった。
お父さんにそっくりなのでピンときた。
彼は、肉料理のアドバイザーもやっていて、なんとコラボで製品を出した老舗の醤油メーカーが、サッサと「謝罪」を表明して、まっ先に逃げた。
いとこまで巻きこんだのは、単なるおまけか?それとも?
こちらも、今後「社会的制裁」が起きるだろうから、一族の問題に発展しそうだ。
話を戻す。
本人がやった許しがたいことと、同じ本人がやった作曲とがぶつかり合ったとき、発信媒体がこれを元から差し止めるやり方は「正義」なのか?
そんな問題があるのではないか。
でなければ、ワーグナーはおろか、フルトヴェングラーすら聴くことができなくなる。
本人はこれから何をもって生きていくのか?
国内ではおそらく、別の仕事をするしかない。
ならば、海外ならありか?
ワーグナーもフルトヴェングラーも認める世界である。
これから、が興味深い。