人間の「不可逆性」とは、なにに対してか?と問えば、「知識に対してである」がこたえだ。
脳を損傷したり、発病したりしなければ、産まれてから学んだ数知れずの「知識」を忘れることができない動物なのである。
「知識」は、たんなる「記憶」ではない。
それなら、人間よりもっとすぐれた動物に「象」がいる。
象の脳は、一度記憶したことならけっして忘れない。
人気アプリ「エバーノート」のロゴが「象」なのは、このことを強調している。
象が人間のような文明をもっていないのは、「知識」と「記憶」が別物だからである。
もしかしたら象は人間のもつ文明をもちたくないのかもしれないが、「記憶」をつかって「思考」できなければ「文明」にはならない。
こまったことに、人間には「知識欲」というほどの「欲」まである。
「もっとしりたい」
「どうなっているのか?」、それがわかったときの満足感。
この「欲」こそが、文明をつくりだした「エンジン」なのである。
画期的な「発明」が、たとえそのときに売れなくても、いつかなにかに応用されるのは、発明品に内在する「知識」が発掘されて、世に出すひとがあらわれるからである。
人間がわすれ、うしなった「超古代文明」というロマンがロマンになるのは、不可逆性にたいするありうる仮説、たとえば天変地異や破滅的な戦争が原因だったとするからだ。
つまり、前提じたいが仮説になっている。
米ソ冷戦で世界が緊張していたときに製作された『猿の惑星』は、猿が日本人であるという正体のうわさはヨコに置いて、核戦争後の地球に帰還した宇宙飛行士の物語をもってシリーズがはじまった。
この物語における「人間」が、文明をもたないのはことばをもたないという前提になっていたからである。
ことばをもたない、とは、思考をもたないこととおなじだから、文明を構築することはできない。
だから、人間がことばをもっているかぎり、それが何語であろうが、重要な知見は翻訳されて「拡散」されることになるのは「エントロピー」なのだ。
どこのだれが、どんな知見からあたらしいことをおもいつくかはだれにも予想できない。
それは、おもいつく本人にすら予想もできないからだ。
おおくの「ひらめき」は、とつぜん脳裡に浮かぶものなのだ。
じんわりとやってくることはない。
それで、「ひらめき(Flash)」という。
ところが、ひらめきを体験したことがあるひとならわかるだろうけど、「ひらめく瞬間」までのあいだ、意識的でも無意識でも「なにかを『ずっと』かんがえている」ものだ。
べつにいえば、かんがえることが日常になっているような状態だ。
よくいわれるのが、散歩中とかランニング中とか、なにげなくからだをうごかしているときに、けっこう「ひらめく」から、「ひらめき」を欲しくなれば散歩するようになったりする。
じつは、このとき、あんがいなにもかんがえていないか、べつのことをかんがえていることがおおい。
そんなわけで、職場のデスクにじっとしていて「ひらめいた」経験はあまりない。
仕事上のアイデアを求めるときほど、職場からいなくなったものだ。
こまったことに、こうしたことを経験したことがないひとが上司になったとき、職場からいなくなるこをとがめられた。
前の職場では、デスクにじっとしていることをとがめられたから、おなじ会社でもちがうことがある。
自分で職務遂行をまじめに履行するなら、やっぱり職場のデスクにじっとしていても変化がないから、とがめられようがそれは無視した。
すると、やっぱり「ひらめく」のである。
しかし、問題はひらめいたあとなのだ。
これを「企画にする」というステップをふまなければならない。
知識の不可逆性は、とうぜん提案相手にもあるから、以前のままでははじまらない。
いかに「進化」を強調するかになるのだが、自社内での進化のみならず世間の進化にも対応しなければ、へたをすれば「退化」になる。
そこで「ベンチマーク」が大切なのだ。
ただしき競合相手(ライバル)の選定である。
自社と同等なライバルは、スポーツにおけるライバルとも似ていて、相手がいるから頑張れるのだ。
そうしてみると、米ソ冷戦時代の双方が互いに頑張ることができたけど、ソ連が脱落してライバルがいなくなったら、アメリカも弱体化してしまった。
わが国は、バブル経済でアメリカを追い抜いたとおもったら、こんなものかと慢心してこころが緩んだら、思考する脳までゆるんでそのまま凋落している。
ライバルのはずがなかった中国には、とっくに抜きさられてもう追いつかない。
巨大になった彼の国の崩壊を望むのは、防波堤もないのに大津波を望むような愚論である。
ほんとうは「不可逆性」がはたらくはずなのだが、どういうわけか「カネにならない」ことばかりに投資して、凍死しそうなのはかつての同盟国ドイツとおなじであるから、べつくちをみつけないといけない。
さてどこか?
よきライバルがみつからない。
ここにいたっての「不可逆性」は、「絶対値」で思考するしかないという知恵である。
だれかに「依存」すればよい、という時代には二度ともどれないのである。