サブタイトルは、「関東大震災と横浜の交通網」だ。
場所は、横浜市都市発展記念館で、ここは、公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団がやっている。
この3日が、3月12日からはじまった展示の最終日だった。
「横浜の鉄道」といえば、いまなら様々な路線があるけど、いまはもうない路線で当時のエースは、「市電」(1972年4月1日廃止)だった。
もちろん、東海道本線という大動脈はあったけど、関東大震災当時はいまの御殿場線経由で、支線として大正11年12月に国府津-真鶴間ができた。
その廃止の直前に、用もないのに父親と市電に乗った。
「人生の想い出になる」が、わざわざ出かけた理由だった。
車内はガラガラで、名残を惜しむ感じがしない「ふだんどおり」だったのが、かえって子供にもリアルだった。
それから、線路や架線の撤去工事がはじまって、ようやく沿線のひとが「ガタガタ音」が聞こえない寂しさを語ったのを、なにを今さら、とおもったものだった。
「ワンマン化」が遅れて、赤字が膨らんだと批判するひともいたけれど、車掌さんが乗り継ぎ券を発行してくれたから、路線を何回乗り換えても料金はおなじだった。
それで、廃止前にワンマン化したら、乗り換えが有料になって「大幅値上げ」になったから、利用客も激減したのである。
じつは、いまよりずっと安くて便利だった。
明治になる前に開港した横浜は、森林太郎鴎外作詞の『横浜市歌』(開港50周年の1909年:明治42年)にあるような、ぜんぶで80戸余りの小さな漁村が原点である。
むかしは小・中学校の式典のはじまりには、「国歌斉唱」と「横浜市歌」の順だったけど、そのうち「国歌」がなくなって横浜市歌「しか」歌わせないことになったので、横浜市民で横浜市歌をしらいないものはいないが、国歌をしらないことに「させた」反日教育の絶望がある。
これが、「国際都市」だと自慢する精神の倒錯だ。
世界のどこに自国を卑下する国際人がいるものか。
さて、どこがそもそもの「横浜村」だったのか?
かんたんにいうと、地下鉄みなとみらい線の「馬車道駅」から「元町・中華街駅」までの地上にある「本町通り」を中心とした、半島状に突き出ていて「宗閑嶋(しゅうかんじま)」と呼ばれた砂州をさす。
半島の付け根は、元町の「港の見える丘公園」につながる山だった。
この半島が天然の堤防のようになっていて、「内海」があった。
それが、東海道の神奈川宿からみたら、横に浜があるようにみえたので「横浜」だったのである。
すると、現在の横浜駅も、桜木町駅から内側、京浜急行の「日ノ出町駅」から「南太田駅」までの大岡川を堺にして、ぜんぶが海で、対岸は「根岸台」になっている。
だから、いまの「横浜市中心部」の「低地」は、すべて埋め立て地だ。
よって、この広大なエリアは、碁盤の目状に区割りされている。
それで、埋め立て地の中心に「中川」という水抜きの掘り割り川があったけど、これも埋め立てられて「大通公園」になった。
ちなみに、桜木町駅から石川町駅までの鉄道高架も、水門があった名残の運河の上にできたもので、それもいまでは「首都高」になったのである。
ついでに書けば、山下公園は、関東大震災の瓦礫を埋め立ててできたから、旧横浜村の面積が広くなったともいえる。
それゆえに、往年の「横浜市電」は、本来の「陸地」と、埋め立て地の中心部を、文字どおり「縦横に結ぶ」市民の足だったのである。
また、開港記念日には、「市立学校」は、小学校からぜんぶが「休校」になって、「港まつり」が盛大に行われていた。
市電もパレードに「参加」して、めったにみられない装飾の「花電車」(ふだんは地味な貨車車両も)が、夜には電飾も眩しく何台も連なって走っていた。
これを、沿道に新聞紙を敷いて、弁当を食べながら眺めるために、朝から場所取りをしたものだった。
それで、小学校も高学年になったら、こんどは学校でつくった「鼓笛隊」で、足が棒になるまで演奏しながら歩いたのを忘れられない。
いまのようなスニーカーなんてない、「運動靴」が恨めしい。
けれども、どこからともなく出てくる声援の見物客が、近所のひとなので、気が抜けなかったのである。
そんなわけで、自分が生まれるはるか前の「関東大震災」で、市電も燃える写真をみながら、よくぞ何もなかったようになっていたと、感慨深くなったのである。
なお、復興に「陸軍鉄道第一連隊」が活躍したことをはじめてしった。
さらに東海道本線の横浜駅も消失して、無傷だった貨車の貨物が掠奪されたということに、「ふつうの国」のエネルギーを確認した。
もちろん、「掠奪」を褒めるものではないけれど、どさくさに紛れて行う集団行動が、「できた」ことに感心したのである。
日本人は、1918年(大正7年)の米騒動も含めて、あんあがいと「暴動」を起こしてきた。
なのに、昭和60年頃を境にして、暴動なんてあり得ない、という国民になったのである。
ちなみに、1995年(平成7年)3月20日に起きた、「地下鉄サリン事件」は、生物化学兵器によるテロ事件であって、「大衆がする暴動」とは異なる性質のものだ。
震災当時の横浜駅は、「二代目」で、その「遺構」はこれも廃線になった東急東横線旧高島町駅すぐ近くのマンション敷地に保存されている。
現在の横浜駅は、「三代目」ということになっているが、オリジナル駅舎はとっくに改築されて、味も素っ気もない近代建築の商業ビルになってしまった。
それに、東海道貨物線は横須賀線の専用線化で内陸部に分離されたので、横浜駅で貨物列車の通過をみることはもうない。
逆に、武蔵小杉から東戸塚間は、むかしの貨物線を走っていることになるし、武蔵小杉から品川間はいまも貨物と併用している。
そんな横浜駅から「避難するひとびと」が、屋根のない貨車にすし詰め状態で乗っている写真が印象的だった。
行き先は北関東、東北方面だという。
職人風のひとは「ハンチング」、ワイシャツすがたのひとは「カンカン」、学生は「学生帽」で、少年は「キャップ」と、全員が帽子を被っていて、「無帽」のひとがみあたらない。
おそらく、食糧の買い出しか?
それに家を失ったからか、身軽なのではあるけれど、身なりはちゃんとしているのである。
もっと奇妙なのは、女性がひとりもいないことだ。
この一枚に、どんな生活ドラマがあったのか?
もっと詳しく解説してほしかった。