外国人向けの「国家資格」であった。
「あった」というのは、いまでも資格制度は「ある」のだが、なぜか昨年「規制緩和」され、資格のない誰でもが「通訳案内」できるようになったのだ。
「通訳案内」とは、外国人向けの「ガイド」である。
「規制緩和」においては、「利権」の有無が重要で、なんのための規制なのか?ということをないがしろにするのがわが国の特徴である。
もちろん、役所と役人に利権があれば、それは「岩盤」になったり「テッパン」になったりする。
だから、通訳案内士の規制緩和がされたということは、通訳案内士には「利権」がない、という意味である。
ならば全面的に廃止すればいいのだが、中途半端にしてできないのは、独立行政法人国際観光振興機構(日本政府観光局)が試験事務を代行しているからである。
つまり、観光庁が影響をすこしでも残したい、という「利権」が尾てい骨のようにあるからだろう。
一方で、全国に2万5千人ほどいる「有資格者」は、なぜ「規制緩和反対デモ」をしないのか?
泣き寝入りなのだろうかと心配する。
「観光立国」と、聞き心地のよいことばをろうしても、そんな気はぜんぜんありませんといっているようにしかおもえない。
通訳案内士とは、外国語の通訳をして観光ガイドをする、語学系唯一の国家資格であった。
この資格が、二本柱からなっているのは、上述のとおり、外国語能力とガイドとしての知識である。
また、地域限定の通訳案内士としては、2007年から、6道県(北海道、岩手県、栃木県、静岡県、長崎県、沖縄県)で始まったが、10年後の2017年時点で、実施しているのは沖縄県のみになったので、あらためて2018年から「地域通訳案内士」資格ができたという体たらくだ。
民間ではあたりまえの、継続性の原則「ゴーイングコンサーン」が、成立しないのは「地方だから」ではなく、資格の設計が甘いからである。
そういうわけで、国家資格として「全国バージョン」と「都道府県限定バージョン」の二本立てになっているが、冒頭のごとく、この資格をもっていることのメリットがよくわからない「死角」にはいってしまっている。
「士(師)業」という分野は、たいがい「資格保持者」しかできないという制約があるのは、「資格試験」というハードルをこえる能力があると認められるからで、ほんとうにそれを認めているのは管轄の「役所」ではなく、市民である国民が認めているからである。
そういう意味で、通訳案内士の試験の「科目免除」をみると、語学についてはそれぞれに具体的な水準がわかるものとなっている。
しかし、地理や歴史という「ガイド」の分野では、急速にあやしくなってしまうのである。
地理では、旅行業務取扱管理者や地理能力検定日本地理2級以上が科目免除になるし、歴史では、歴史能力検定日本史2級以上の合格者もしくは大学入試センター試験「日本史B」60点以上取得者が対象となって、一般常識では、大学入試センター試験「現代社会」80点以上取得者となっている。
つまり、大学入試センター試験は、社会人が受けても価値がある。
しかし、よくかんがえなくても、これで「ガイド」が務まるのか?
という素朴な疑問には、おそらく耐えられないだろう。
つまり、「ガイド」とはなにか?
というもっとも基本的な定義が、国民が納得するかたちでなされていないということだ。
だから、国家資格はあるけれど、だれでもやっていい、ということになったのだ。
本物の「観光立国」の国では、観光ガイドは「尊敬される職業のひとつ」になっていて、その知識を応用した案内が「プロ」として国民から認められている。
べつのいい方をすれば、「品質保証」されているのである。
それが、有償ガイドの有償である理由であるから、時間を有効につかいたい客は、無償ガイドを頼むことはない。
これまで、観光客は基本的に現地で有名なガイドを「指名」することができなかった。
それで、言語別のガイドを依頼することになるが、ガイドの内容が「品質保証」されているから、おおきなトラブルはない。もし、トラブルがあるとすれば、「品質保証」があいまいな途上国でよく起きる。
わが国製造業は、「ジャパン品質」というブランドを打ち立てたが、観光におけるガイド業でこれができなかったし、今般の規制緩和で今後改善される余地をうしなってしまった。
すなわち、わが国はこの分野で完全な「途上国」なのであって、しかも「発展」の可能性がないのである。
地域のボランティアガイドという「素人+アルファ」が案内するさまは、ほほえましくはあるけれど、ちゃんとした観光(学習)がしたい、という要望にこたえることはできない。
しかも、廉価とはいえ有償のばあい、「ボランティアだから」という言い訳は本来できない。安かろう悪かろうの再生産になるのだ。
日本を深くしりたいというニーズをもつひとほど、じつは高額所得者であることがおおく、ガイド料を節約しようという発想はしないし、そのエリアで消費する用意もしているのだが、「無料」や「廉価」こそが価値であると自分たちの価値観をスタートラインにおくから、結局「退屈なニッポン」と評価されるのである。
適正なサービスには適正な料金を支払う。
それにはなによりも「サービス品質管理」が基盤となるのである。
日本人がつぎに学ぶべきことであろう。