犬のはなしではない。人間のはなしである。
犬ならば、人間の命令に従うように訓練(しつけ)をするのは、人間社会という空間で一生を暮らすための「必要条件」になるからである。
それは、その「個体の安全」にかかわることになる。
だから、むだ吠えしてうるさいから、とか、トイレをまちがえて後始末がたいへんだから、とか、フード・アグレッシブだから、とか、散歩で引っぱるから「しつけ」が必要になる、という理由ではなく、人間が群れの「ボス」であることを習得させることが、もっとも重要な「しつけ」になるのは、すべてがここからはじまるからである。
残念なことに、犬をしつけるためには「暴力」や「痛いめ」にあわせることが必要だとかんがえるひとがいて、これがゆえに「しつけしない」で「犬の自由」にさせることを意識的にして、最後は飼い犬に手を噛まれて大けがし、あげくに愛護センターに持ちこむことすらある。
やっぱり、犬が不幸になるのだ。
つまり、犬の幸福とは、安心できる群れのボスに守ってもらえることが第一条件になっている。
これが、動物としての「犬の本能」なのだから、その本能を育むことが「しつけ」であれば、虐待でもなんでもなく、当然に「暴力」や「痛いめ」にあわせる必要性などどこにもない。
これが意味するのは、飼い主の人間がどう考えているのか?次第であることに尽きる。
つまるところ、プロの訓練士がいう「犬を訓練するのではなく、飼い主を訓練するのだ」ということになる。
訓練士のもとでは「いいこ」なのに、飼い主にもどされるとかえって態度が悪化してしまうことがあるのは、飼い主が犬の扱い方を訓練されていないから、犬が混乱をきたすのである。
バカなのは犬ではない。
ここから学べることは、なにか?
まず、「相手をしる」ということの重要性である。
相手が犬なら、犬とはなにか?
相手が人間なら、ヒトとはなにか?
子犬の売買における法的規制が厳格なのは、ヨーロッパにおけるドイツ語圏である。
ドイツやスイスがこれにあたる。
誕生してから母犬と兄弟たちとの生活による、「社会化訓練期間」を経ない個体としての取引は「禁止」されている。
この「社会化訓練期間」に、親犬等からの引き離し自体が「虐待」だという認識を人間社会の方がしているのである。
つまり、三つ子の魂百までということわざどおり、親犬等による「犬社会」という世界における「しつけ」すら子犬時に経験がないと、その犬の将来に「精神不安」がおそってきて、とうとう犬が精神病を発症してしまうことの可能性が高まることがわかっているからである。
わが国の「自由主義」は、この事実を無視しているが、それは、けっして「自由主義がいけない」のではなくて、商業主義重視、つまるところ産業優先・業者優先の「重商主義」がいけないのである。
結局それで、飼い主という個人がリスクを負担させられているのだ。
つまり、犬も人間も不幸になるようにしている。
ドイツ語圏の合理性重視という価値観からしたら、「ありえない」という状況がわが国では「常態化」しているのだ。
すると、こんなことが「常態化」している、わが日本社会とはどんな社会なのか?
ようやく、人間のはなしになる。
「自由の取り違え」を根本としているのである。
さらに、発想の原点が明治期の成功体験をいまだに基礎にしていて、これを戦後の高度成長の体験とダブらせている。
つまり、発想方法が「帰納法」によっている。
すなわち、類似の事実の積み重ねから、原理や法則を導きだす「推論」のことをいう。
たとえば、明治のひとは頑張ったから成功した。戦後も頑張ったから成功した。だから、頑張れば成功する(はず)だ、という論法である。
これが、「頑張ろう日本」になっている。
けれども、なにを頑張るのかがあいまいでわからない。
わかっているのは、うつ病のひとに「頑張れ」といってはいけないことだ。
そこで、反対の発想方法に「演繹法」がある。
これは、前提となる「事柄」から確実にいえる「結論」を導きだすものだ。すると、前提となる事柄がぜんぶただしいとなると、結論も必ず正しいものを導くことができる。
よくいう「三段論法」がこれにあたる。
たとえば、犬は必ず縦社会をつくって安定する動物だ。人間がボスになると犬は従う。ゆえに、人間がボスになると犬は安心する習性があるからそのようにしつける必要がある。
すると、わたしたち自身が、犬あつかいされるのは、人間社会としていかがか?ということが問題になる。
支配したい為政者は、人間を犬あつかいしたい。
支配される側は、犬あつかいは嫌だ。
これが、人類史における「興亡」となった。
そんなわけで、ふるい教育とは、為政者の命令に従うように一般人の子どもを訓練することであった。
いま、マスコミに出てくる医者のいうことや、政府のいうことに盲目的かつ忠実なひとたちは、この部類の訓練を受けてきたのだとわかる。
しかして、人間という動物の精神や心理を研究すると、命令しなくても命令に従うようになる。
さて、それはどんな方法で、はたして為政者だけに都合がよいものであるか?
自分にも都合がよいから、自分から従うのである。
それが「マネジメント」なのである。
日本人にいま、もっとも欠ける素養になっている。