各国政府というのは、古い概念になってきている。
つまり、世界政府への主権の移動がはじまっている。
これが証拠が、ESG(E:Environment:環境、S:Social:社会、G:Governance:ガバナンスを意味する)で、国連で決まったSDGsの企業経営版にあたる。
SDGsの下に経済活動としてESGをおこなうことが、事実上義務づけられたのである。
国連加盟各国が、これに承諾して調印をした。
このことは、一部のひとしか指摘していないけど、国家主権の放棄を意味するほどの重大事だ。
この重大事が、あたかもなかったこととか、関係ないといった態度でスルーされている。
関係ないとは、国民の生活に関係ない、という意味にまでなるのだけれど、関係ないはずがない。
それどころか、直結していて、個人として逃れることができないし、個人がルールづくりに関与しないという意味でしかない。
かんたんにいえば、あきらめろ、ということの命令なのである。
誰からの命令かといえば、国連から、だから、国家主権の放棄なのである。
すなわち、国家は国連の下請け行政機関に成り下がったのだ。
これは、巨大なEUで、EUのEはヨーロッパのEだが、文字どおりUNの国連がその本性をあらわにした。
選挙を経ない官僚機構が、選挙で選ばれた各国政府に指令を出すのだから、これを世界共産化政府の樹立というのである。
北朝鮮は金日成バッジの着用を義務づけたけど、いまは、ESGに賛同する企業の社員たちがSDGsバッジを着用させられている。
これは、ESGを表明しないと、国際取引での排除を意味するからである。
つまり、ビジネス契約が継続もしくは、新規にできない。
あたかも、排他的な事業組合を、全産業に強要しているのである。
だから、全体主義である。
これら国際間取り引きのある企業の従業員は、この強制から逃れられない。
ここに、外国人も宿泊する旅館やホテルも含まれるし、外国人の利用がある国内交通機関も含まれる。
また、外国から肥料や飼料を買い付けている農業も、逃れられない。
賛同しない限り、売ってくれないし、買ってくれない。
とにかく、全産業、なのである。
それだから、投資会社は証券会社も、ESG関連株とかと称して「将来性」を謳って販売している。
「持続可能ですよ」と。
しかしてその「持続可能」とは、世界政府のことである。
国家主権を放棄したくない国や、いったん政権によって放棄した国でも政権交代したら主権を取り戻す動きになるはずだ。
このとき、国連はこうした国々に「制裁」をするのだろうか?
じっさいに、常任理事5大国のひとつ、ロシアは主権の放棄をしていない。
英国とフランスは放棄した。
中国は微妙で、アメリカはオバマ政権が放棄したのをトランプ政権がちゃぶ台返しをやった。
その恨みが、トランプ追放を画策したバイデン政権で、しつこくも共和党(トランプ派)は再度取り戻そうとしている。
EU内では、ドイツが放棄したけれど、ハンガリーは放棄を拒否した。
イタリアの現政権は、フランスを植民地支配を続けていると名指し非難して、いまや両国はにらみ合いを続けているけど、マクロン政権の基盤が揺らいでいる。
イタリアがいう、植民地主義とは主にフランスのアフリカ支配のことを指す。
1884年(明治17年)11月15日から翌年の2月26日まで開かれた、「アフリカ分割会議(「ベルリン会議」と誤魔化すこともある)」で、ヨーロッパ列強が、アフリカ大陸の分割を「決めた」のである。
仕切ったのは、ビスマルクで、当時のドイツは「第二帝国」だった。
もちろん、アフリカ人はひとりも参加していない。
これで決まった「分割地図」をみれば、どうしてベルギーがチョコレート大国なのかもよくわかる。
カカオ豆の産地をベルギーが抑えたからだ。
日本人も、チョコレートを食べるときにはアフリカ人の血と汗の苦味を感じるくらいの感性がほしい。
じっさいに、いまフランスが原子力発電大国なのも、フランスがとった北西アフリカがいまでも天然ウランの産地だからである。
イタリアはリビアとエチオピア・ソマリアの一部をとったが、この中心が「白地」なのは、ヨーロッパ人に免疫がない疫病の発生地帯だったからだ。
ムッソリーニのイタリアのリビア支配に反旗を掲げたオマー・ムクターとの死闘の実話を描いた一大歴史絵巻が、『その男ゾルバ』や『アラビアのロレンス』で有名な名優、アンソニー・クインが演じている。
けれども、ムッソリーニだけを非難してもはじまらない、全ヨーロッパ人の強欲がこの大陸を支配していたのである。
そんなわけで、いまどきはEUの統一だって、不安材料がたっぷりで、ことしはスペインで総選挙が予定されている。
昨年の2月の地方選挙で、いわゆる「極右」が大躍進して、ラテンの兄弟イタリアと歩調をあわせている感があるからどうなるか?
植民地主義を肯定するマスコミが書く「極右」とは、民族自決をいうひとたちで、アフリカ人の自立を認めて支援する側をいうから、やっぱり主要マスコミこそ過去の植民地主義が忘れられない邪悪で強欲なのだ。
3日に招集されるアメリカ連邦下院では、議長が誰になるのかの混沌があるように、主権を取り戻す共和党トランプ派と、主権を放棄する民主党と共和党のネオコンの争いが、内戦勃発を予想させるほどの緊迫を帯びてきた。
わが国は敗戦で、とっくに主権を放棄したので、誰が首相になろうが、なんど選挙をやろうが変わらない。
ただし、国民にも奴隷にされることに抵抗する小数派がいるので、すでに「奴隷の幸せ」を享受しているひとたちとの対立はこれから起きるだろう。
その奴隷になることの幸せ(な心理)を描いたのが、作者不明の『O嬢の物語』だった。
一応、ポリーヌ・レアージュ作となっているが、誰だか不明のままなのだ。
作品はあたかも「エロ」をもって表現しているけれど、自由を奪われることから積極的(主体的)に奴隷になることを選ぶ。
それこそが解放なのだという逆説の帰結は、あまりにも衝撃的で理解困難であった。
いま、人類はその理解困難な心理に落とし込まれる瀬戸際にある。
そして、『1984年』の主人公同様に、死を許可されることが示唆されて物語は終わるのである。