「辞書の三省堂」が、『新明解』に続いて『三省堂国語辞典』も新版(どちらも「8版」)を出した。
「国語」なので、「新語」が注目されがちだけど、基本は「紙の出版物」という制約があるから、一度採用した「新語」も、時が経てば「経年劣化」することがある。
この場合、古い言葉ほど残るのは、「経年に耐えた」という「古典」的意味合いが出てくる。
それで、「見出し」はそのままでも、「解説」が変われば、それはそれで「新語」のようなものである。
それに、「新版」が出た途端に「旧版」は、書店の棚から引き上げられて、「古書」扱いになってしまうのだ。
すると、どこがどう「変わったのか?」ということが、気になるのである。
書店には、「サンプル」として、「ここ」という付箋がついていて、そのページを開ければ、さらに「マーカー」や「メモ」で、「違い」や「新しさ」をアッピールするのだけれど、それだけ、を扱ったものがない。
もちろん、「廃語」となった言葉を見つけることはできない。
「8版」にもなると、新語と廃語の「変遷」を特集した「読み物」としての「中身公開」があってもよさそうだ。
『新明解』と『三省堂国語辞典』を合作した「変遷版」を出して欲しい。
その言葉や解説の変遷が、「版表記」でわかれば「年」でもわかる。
ちなみに、『新明解国語辞典』の初版は、1972年。
『三省堂国語辞典』は、もっと古くて、1960年だ。
すなわち、わが国絶頂期に出版された「辞書」なのである。
この二つの辞書の違いは、『新明解』が、ストイックに言葉の意味を追及しているので、ある程度の「年齢=人生経験」を積んだおとな向けの「読んで味わう」タイプに対して、『三省堂』は、クールな「歯切れ」のよさが特徴だ。
辞書本体でも悩ましいのが、紙版と電子版ではあるけれど、紙版の「大きな辞書」も食指が動く。
されど、持ちだし携行には向かないから、電子版と悩むのである。
けれども、「変遷版」なら、電子版でもいい。
「読み物」になると思うからである。
それに、「近代史」の資料にもなる。
「世相」がわかるからである。
さて、「辞書」をつかうという場面では、学校の授業ということもあった。
重い辞書をカバンに入れて、持ち歩いてはいたけれど、めったに「授業中」に引くことはなかった。
つまり、「ときたま」引かされた。
予算が豊富な、たとえば、国立大学(元来の「師範学校」)付属の国立小学校(ここの生徒は「実験台」なのだけど)では、クラス人数分の辞書があって、これを教師がワゴンで教室まで持ってきて、授業でつかう、という技を見せることもある。
しかし、令和の時代になって、「GIGAスクール」という構想が、文部科学省の下で練られている。
先ずは、学校内をLANと高速回線(「ローカル5G]も)でネット接続して、クラウドを活用するという。
これで、端末のパソコンが「Chromebook」になっている。
理由はおそらく単純で、「使用」に際しての教師の負担がほとんどないからだと推測する。
最初から「クラウド利用:Google Drive」に接続することを前提としたマシンなので、マシン自体が高スペックである必要はないし、ネット接続も「Google任せ」で済むからだ。
これが、「Windows」や「MacOS]だとそうはいかない。
個人情報を含めて、セキュリティ管理が厳密な「パーソナル・コンピュータ」だから、端末と利用する個人(生徒や教師)を特定しないといけない。
他人のをちょっと借用、というわけにはいかないのだ。
それで、生徒用には「学習ツール」として、無料で「Google」が提供するアプリを使うようにしているし、教師用には「校務」のためのグループウエアなどを使うように「強制」しているはずである。
そうやって、遠隔・オンライン教育の実施という名目の他に、「文理分断の脱却」ということも、「目指すべき」と発信しているのである。
さてそれで、本音は、「Society 5.0」を生きる子ども達、という前提がある。
経産省がいうこの「構想」に、格下(全省庁で最下位)の文科省が従って、「子育て」をしようというのである。
そんなわけで、三省堂の電子辞書群も、サブスクリプション契約になっていて、「卒業後」も使用契約が継続できる、という「特典」が強調されている。
それでみると、学校生活の中で「新版」が出版されると、自動的にその分は無料で新版に移行するということが、「メリット」になっている。
はたしてこれが、「教育的」なのか?と考えると、小学生でも高学年や中学、高校生が相手なら、むしろ「変遷」が「付録」されると、より教育的で、契約メリットのような気がする。
それにしても、辞書をパソコン端末で引く、ということが「Society 5.0」ということなのか?と思うと、いよいよ学校教育も「民営化」するべし、と考えたくなる。
それは、紙版と電子辞書の「教育効果」という点で、周辺が読める「紙」の有利さがあるからである。
とにかく国家の役割と依存の関係を整理しないと、わが国の衰退は止まらないことだけは、「確か」なのである。