変身願望と変身モノ

わたしが子供の時分には、とにかく、「変身モノ」のテレビ番組が流行っていた。

これは、どこからきていた発想なのだろうか?と、ふとかんがえたら、GHQへのレジスタンスからか?あるいは、GHQがつくった現状を定着させようとした努力だったのか?と二案をおもいついた。

こうしたことを批判的に残したものを読んだことがないので、ご存じの方がいらしたら是非ご教示いただきたい。

さて、変身モノの代名詞といえば、『ウルトラマン』と『仮面ライダー』だろう。
これは、「ヒーローもの」ともいえる。

しかし、「変身モノ」には、バリエーションがあって、たとえば、時代劇の定番、『遠山の金さん』も、『水戸黄門』も、立派な変身モノだとかんがえている。
庶民の姿から、ここぞという場面でその高貴な正体を明かす、あの場面こそ、変身なのである。

もちろん、すべての変身モノは、読者や視聴者の事前知識として、物語の中で主人公がそのうち変身することをしっている。
だから、切羽詰まった場面における期待通りの「逆転」の痛快を味わいたくて、ついついうっかりとその快感に浸りたいがためにみてしまうのである。

ようは、麻薬的なのである。

これを、いまからしたらプロパガンダ機関のテレビ局がさかんに製作しては放映したことの意味をかんがえると、しばしゾッとする。
そういえば、当時現役でバリバリだったひとたちは、こうした作品に目もくれなかったけれど、その前の世代とその孫たちがはまり込んだのには意味があったのである。

なので、放送をリアルでみなかった世代が引退して、リアルではとっくに製作・放送が終了した『水戸黄門』の巨大なストックからの再放送が、TBSの最高視聴率を稼ぐという皮肉にもなった。

一方で、もう一つの「変身モノ」のパターンは、日常生活とは別の特殊メンバーとしての活躍を描く作品群である。

たとえば、『マイティジャック』の隊員たちの一般人としての生活がある。
『マグマ大使』の、「人間もどき」では、一般人が変身させられる恐怖を描いて、デビューしたての、中尾ミエがやたら不気味な演技をしていた。

これはあんがいとリアルな「スパイモノ」の一種で、二重生活という異常だが妙な感覚があるのだった。
おなじ屋根の下、目の前にいる相手はいったい誰なのか?

『麻雀放浪記』における登場人物たちの不思議な素性とは、戦争が破壊した社会の姿の記録なのである。

そうやってみると、たかが80年で、どんなに社会が変化したのかがよくわかる。

わたしの祖父母世代は、明治の中期生まれだったので、昭和の初めに生まれた親世代からみた祖父母の世代は江戸末期から明治初期であったろう。
その昭和の終わり間近には、「明治は遠くになりにけり」といわれ、いまでは「昭和へのノスタルジー」が、この時代をしらないはずの若者にあるという。

それはおそらく、経済発展していた歴史的事実からの「憧れ」なのだろう。

それでか、古びて安っぽい内装にわざと作った昭和の酒場をイメージさせる呑み屋が人気である。
なんだか景気がいいような気がするのも、経営側の演出効果を超えた、客側の購買価値になっている。

J-POPやらに疲れた若者たちが、演歌と歌謡曲のBGMに浸ると、なんだか癒やされる、というから「おそるべし」なのである。

これもまた、つかの間の変身願望なのだった。

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