国際結婚だから、ということ以外にも、夫婦のことは夫婦にしかわからない。
むかしから、「犬も食わない」といわれるのは、いまどきなら犬にも失礼だ。
本人がタレントという人気商売であるから、根ほり葉ほり聞き出されることも「仕事のうち」なのかもしれないけれど、コロナばかりのワイドショーに、絶好の話題を提供したことだけは事実である。
だからなんなんだ?
と白けて観れば、テレビの電波のムダ、観ている電気のムダに時間のムダもくわわって、なんら「ためになる」こともない。
わが国では「自粛」で、外国では「逮捕もともなう強制」だったことをいいことに、今後はわが国でも「外国とおなじ」にしたいとかんがえるむきもあんがい多数いる。
つまり、みずから望んで「不自由になりたい」という願望があるということだ。
果たして、わが国における「コロナ禍」は、病気としてみた場合、そんなに強烈な被害があったわけではない。
無論、お亡くなりになった方には無念だろうし、ご愁傷さまというしかないが、死因がほんとうに「コロナだけ」というひとがどのくらいいたのか?
別の病気があって、体力が減衰したところに打撃を受けたのが死因だとすれば、あえていうなら、末期癌のひとがピストルで撃たれたようなものでもある。
わたしの母も、脳梗塞の治療中、院内感染が直接原因となって死去してしまったのは、体力の減衰が著しかったからである。
つまり、「自粛」ができる国が、あえて「強制」を要するのか?と問えば、外国は、「自粛」ができないから「強制」なのであることに気づくわけだ。
それが、ウィルス被害の深刻度としてみたときに、「自粛」の国が軽く、「強制」の国が重いという結果にもなっている。
欧米の悲惨と比したときのわが国の「成功」が、しっくりこないのは、もっと筋道だった「台湾の成功」があるからだ。
これは、「SARS」の反省ができた国と、放置した国とのちがいであって、かなり「テクニカル」な準備が効いたかそうでなかったかに分類したほうがよいとかんがえる。
すなわち、わが国の被害が比較的すくないのは、わが国の国民の「日常的精神」が高かったからで、わが国の政府の「対策」が素晴らしかったということではなし、むしろ、「非科学」、「恣意的行為」が為政者やマスコミに目立ったことは、記憶にとめておきたい。
ただし、国民を絶賛できないことも確かで、上述の、「非科学」、「恣意的行為」に対しての批判もすくなったことがあげられる。
すなわち、このことが、「同調圧力」となって、「自粛警察」をつくったのである。
つまり、残念だが「一部に歪んでいる精神」が認められた。
これは、どこからやってくるものか?
日本人には、「歪んだ精神」がふつうにあるのか?それとも、一部のひとたち「だけ」の特徴なのか?
いや、これこそが「近代」の精神なのだろうか?
なぜこのような問いをするのか?といえば、人間は考える葦だからである。
人間行動は、他の動物とちがって、「かんがえる」ことをともなって「行動」する。だから、かんがえの根本にある「精神」が、ここ一番のときに運命を決するほどの重要性をもつのである。
わたしは、日本人と日本社会に自然発生する、「同調圧力」の根本にある「精神」が気になるのだ。
つまり、欧米社会には、「同調圧力」があまり出てこないゆえに「政府の強制」が必要なのであって、わが国では、政府の強制以前に「同調圧力」という「強制」が「自粛」に添加されているとかんがえられるのだ。
すると、こんな国民性の国で、政府に「強制」があたえられると、いったいどんなことになるのか?
まったくもって、おぞましいことになると想像できる。
ポスト・コロナ禍の議論にある、政府への「強制」の付与は、憲法違反という法理だけではなく、日本人の倫理から見直さないと、たいへん危険なことだとかんがえるのである。
そんなわけで、サミュエル・スマイルズの『自助論』を、いま、読むべきではないかと思えてならない。
せっかく政府がひとり10万円をくれるというから、夫婦でiPadを購入して、アップルペンシルでメモ書きをしながら読み進めるのもよかろうときめた。
電子書籍の読み方に、とっくに革命がおきている。
冒頭の「事件」は、日本人の夫人がDV被害者となっている。
なんなら、ふたりでiPadを購入して、『自助論』の読書メモを交互に読み合わせてみたらいかがだろうか?
とは、余計なお世話か?
しかして、メモの共有も、あるはふたりミーティングも、それぞれが端末を持っていれば、かんたんにできる時代なのである。
あぁ、「交換日記」がなつかしい。
固定電話と公衆電話しかない時代がうらめしい。
これも、コロナウィルスのお陰でわかった「現実」なのである。
ただし、高額な高速回線契約あってこそ、ではあるけれど。