町全体が保存地区となっているのは、長野県の「妻籠宿」を第一号とする。
正式には、「重要伝統的建造物群保存地区」という。
妻籠の場合は、隣の「馬籠宿」が、文豪、島崎藤村の生家もあってまた、代表作のひとつ、『夜明け前』の舞台でもある観光地として栄たのに対して、「街道」が廃れた明治からこの方、まったく忘れられたことが、「街並み保存」の原因だった。
狭い旧街道の宿場道を自動車ではすれ違いもままならず、高速に通過できないから、国道があたらしくできて、宿場町そのものを回避したから、余計に世間の目から遠のいたのである。
つまるところ、どの家も、近代化の名にふさわしい建て替えをする財力を失って、そのままの家に暮らしていたのである。
それで、とうとう傷みが激しくなったある家を「補修」することになって、どうするか?を近所のひとに相談したことがきっかけ(居酒屋晩酌の話題か?)で、もしやこの街並みそのものに価値があるのでは?に気がついたという。
その気がついたひとが、横浜からの移住者であったというから不思議なのである。
ひたすら「近代化」を追い求めた横浜とは、条約で突如きまった「寒村」での無理やりの一大開発にすぎなかったために、過去を振り返るものが物理的にも存在しない。
つまり、横浜人の「新しい物好き」とは、精神的にも新しいモノしかないという、一種追い込まれた状態のことを指した。
その新しいモノが、とうとう普及しきって、どこにも珍しさを失ったら、横浜そのものが衰退をはじめたのである。
これが、「みなとみらい」なる計画の本性である。
かつての造船大国がその競争力を失い、広大な「三菱横浜造船所」の跡地開発という「あたらしさ」を追及するしかなくなって、鉄とガラスのビル群を「あたらしい」として建てまくったら、すぐさま陳腐化の波にさらわれている。
タイム・スリップしたのは、現実社会からの訪問客で、ここの住人たちには、タイム・ストップにすぎなかったのは、なにも「妻籠」だけではない。
縁あってそんな横浜から妻籠に移住したひとが、たまたま「家の修理」という現実でみつけた「価値」とは、なにもない無機質な横浜を理解していたことの功績であって、わたしには偶然とはおもえない。
宿場町とは、点と線でいえば、点にあたる土地柄だ。
ここは、情報も行き来した。
今井町は、全部で約1500軒がある中で、約500が「伝統的建造物」の町になっている。
ここは、町の周りを「堀」で囲んだ、「環濠集落」という独立地帯なのである。
それにはちゃんと理由があって、「一向宗」の寺院を元にした「寺内町」であった。
つまり、中国やヨーロッパにみられる「城内町」ともいえる。
織田信長の本願寺攻めから、町自体の「自治権」をもって宗教色は薄めたけれど、いわば戦国にあっての「自由都市」となって経済的大発展をとげた。
その名残が、文化財指定となった町屋群なのである。
旧市街と新市街というエリア区分の概念をはっきりさせている国からしたら、今井町は明らかに「旧市街地」にあたる。
そうした視点からすれば、全部の3分の1しか残っていないことに、いまどきの「自由」があるといえる。
「自由主義」の本家にあたる国からしたら、「旧市街」に、近代の好き勝手な家を建てることは、ふつう「禁止」になるのが常識なのだ。
つまり、今井町の「見どころ」は、文化財レベルの旧来の家が保存されていることによる「観光地」ではなくて、この景観を「穢している」どこにでもある近代様式の家が多数点在していて、しかもそちらの方に実際の「住民」がいることだ。
ここで、どうやって現代的な文明・文化的な暮らしと旧来の家との折り合いをつけるのか?という問題になるのは、馬籠とおなじである。
こうした問題を見事に解決したのが、ポーランドだ。
第二次大戦で、「古都クラクフ」以外、ほぼ全土の都市という都市が空爆や地上軍による爆破を受けて木っ端微塵になったのを、驚くほどの正確さで「復元」した。
しかし、これにはレベルの設定があって、外部だけでなく内部も徹底的に復元するものと、外部だけにとどめるものとに分けている。
たとえば、公共施設の代表格である、教会は、その内部にも厳密な復元が実施されていて、爆破から逃れた絵画や写真あるいは過去の小説を含む文章をもって徹底的に「再現」するレベルになっている。
一方で、プライベート空間の住宅用途の建物には、外観はそのままの徹底はあっても、内部は現代の生活を保持することになっている。
内と外はまるでちがうのだけれども、外観からはわからない。
なので、完全復元されたワルシャワ旧市街の集合住宅は、東京の「億ション」レベルの価格だけれど、供給が増えっこないので需要過多になっているのは当然なのである。
妻籠は、どこまで意識したかはしらないが、結果的にポーランド方式になっている。
この意味で、今井町は、わが国の近代とおなじ自由をとり違えた歩みが想像できる残念があるのだ。
もちろん、全国どこでも、「まともな情報が期待できない」という共通があるので、ご多分に漏れず「橿原市観光協会」も、そんな虫食いだらけの町を、自慢するだけの浅はかな表現に終始している。
かつての、強力な自治が残っていたら、こんな無残な町にはならなかっただろうに。