学校に行くとバカになる

文部科学省が、「令和3年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」で、2021年度における小中学生の不登校数は244,940人だと公表した。
これを9学年で割ると、1学年当たり27,216人ほどになる。

これは、2022年3月31日現在の、自衛隊員の総人数とほぼ同じである。
念のため、定員:247,154人、現員:230,754人だ。

自衛隊員が少ないのか?それとも、不登校者数が多いのか?

率にすると、小学生で1%、中学生で4.1%となっている。
だから、そんなに大きな数には見えないかもしれない。
しかし、「%(パーセント)」とは、100分の1でいうから、小学生の100人にひとりが不登校だというのは、「少ない」といえるのか?

たとえば、家族のひとりが心臓や脳の手術を受けることになったとき、とっくに、一般販売されている書籍で病院の得意分野と、手術実績やらの成功率も情報提供されている。
そのなかで、「1%」の失敗率をどうみるのか?となったら、決して「低い」とはいえない。

わが国の製造業なら、製品不良率は「%単位」ではなくて、「ppm(百万分の1)」でみる。
たいがいの許容範囲は、4ppmなので、25万個に1個の不良までならセーフで、これを超えたらラインを止めるなりして、原因究明をしないと損失の山を築くことになる。

すると、およそ「義務教育」における数値であれば、相手が「物質」ではない、将来ある子供であるのだから、単位は当然ppmであるべきで、1ppmでも許容範囲としていいものか?

すると、小学生で1%というなら、これはもう、1万倍も多いとんでもない不良率だといえる。

しかし、ここで勘違いしてはならないのは、製造業でも不良品そのものが問題なのではないことに注目しないといけないのだ。
つまり、不良品が出ることの原因こそが問題視されることにこそ、注目すべきだ。

だから、不登校になった子供に問題があるとかんがえるのではなくて、なぜそういうことになったのか?が問題なのである。

ところが、文部科学省やら、教育専門家やらは、製造業からバカにされるような、おおきな勘違いなのか、あるいはわざとなのか?不登校になった子供を問題視するのである。

これでは、「物以下」の扱いを人間にしていることになる。

それで、本人の「発達障害」とかがすぐに疑われて、学校から専門医を受診するように勧められ、場合によっては、「治療」と称して、「投薬」までされる。

体罰が絶対悪になったら、陰湿でもっと深刻な「体罰」を、教育界と医療界とでやっている。
なんのため?
責任回避と、カネのためだ。

こんな理不尽に、家庭側が反発すれば、すぐさま「問題家庭」の烙印まで押され、ひょっとすると児童相談所マターとなるのである。

これが、「管理教育」のひとつの行き着く先で、残りの登校している子供には、しっかり「時間割」と「テスト」によって、成績順ができるようになっている。
なので、思春期の中学生になると、「4.1%」という数字に跳ね上がるけど、これを、「ppm」でみたら「ものすごい数値」だと再認識できるのである。

つまるところ、わが国の義務教育=特に公教育は、もはや破綻しているとみて差し支えない。

70年代、英国やアメリカの公教育も実質破綻していた。
1970年、エドワード・ヒース内閣で教育相として初入閣したのが、マーガレット・サッチャー女史(当時45歳)だった。

彼女がやった、興味深い「改革」に、学校給食で無償提供していた「牛乳」の、有償化がある。
ただで貰えることに慣れた国民は、この施策に大反発して、「ミルク泥棒」(Margaret Thatcher, Milk Snatcher)と彼女を揶揄った。

しかし、端からみたら、無料(他人のおカネである税金)で牛乳を飲んでいた方が泥棒なのだ。

いま、わが国でも「教育の無償化」が、各党の公約になりつつあって、とうとう義務教育ではない、「高校の無償化」までもがはじまろうとしている。
しかし、これは前に書いたように、『共産党宣言』に明記されている、正統な共産主義政策なのだ。

邪悪なマルクスとエンゲルスが、良心から「教育無償」をいっているのではない。
国家が子供を奴隷(物以下)に洗脳してしまうことの、悪魔の報酬が「無償」なのだ。

アメリカでは、ミルトン・フリードマンが書いた世界的ベストセラー、『選択の自由』(日本語版初版は1980年)にもあった、「教育クーポン」のアイデアが、レーガン政権で「実行」された。
そしてこれによって、どの学校に通うかを、学区から生徒の選択の自由とした。

なお、彼は、1976年にノーベル経済学賞を受賞していて、レーガノミクスの理論的指導者となった。
こうした本が、日本でもベストセラーになる時代であったけど、日本の「教育制度」は、なにも変わらないでバブルに突入した。

「国家百年の計」といえば、「教育」のことをさす。

このときに用いている「計」とは、共産主義・全体主義がいう、「計画経済」の「計」ではなくて、むしろ、ハイエクがいう、「自由にするための計画」のことだ。
つまり、国家の文部科学省が計画して、各地の教育委員会が実施するものではなく、選択の自由を確保させる制度作りということになる。

この意味で、江戸期の「寺子屋」や「塾」への回帰があっていい。

ぜんぶをいきなりこれにするのではなくて、「寺子屋」や「塾」に通うことの自由化のことである。
もちろん、現代の寺子屋も塾も、文部科学省が設定する、学習指導要領に従う必要もない。

ただし、専門学校や大学への進学を、寺子屋や塾で育った子供に受験させる資格をどうするかも用意しないといけない。
その用意が、ここでいう「計画」なのである。

しかしてその「試験」が、従来の偏差値教育の押しつけであってはならないのだけれども、そもそも、80万人を切った新生児の実数からしたら、従来通りの選抜試験制度が18年後も継続できるはずもないのである。

ならば、最大の課題は、「国家百年の計」そのものにある。

これを、既存政党がなにもかんがえていないことが、教育危機の本質なのであって、もうバカばかりの財界にも。政府にあがなうことができなくなった。

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