石油がどこからやって来るのか?を意識していないことが、ずいぶん前に露呈したのが、自民党3役の重鎮にあった、野田聖子氏である。
それは、南シナ海の環礁に人工島を建設し、なお、領海宣言をしたことの、シーレーン防衛を記者から問われたとき、「わが国からはるか遠いから関係ない」とあっさり答えた事による。
それに、当時のオバマ政権は、この人工島の建設に口先だけ反対してなにも行動しなかったことと連動して、この無防備を、国家安全保障上の大問題とする野田氏以外の政治家も皆無だったし、もちろん、日本をおとしめたいマスコミも騒がなかった。
いってみれば、これが「戦後民主主義の到達点」なのである。
日本国民の代表は、情弱な国民並みのままで、与党の要職に就けることを示したからだ。
これぞ、なんでも平等、の成果なのだ。
そんなこんなで、ウクライナ戦争も、一方的に「ロシアが悪い」に終始して、とうとう、イスラエルに戦禍が飛び火した。
「イスラエル=ユダヤ」と「パレスチナ=アラブ」との対立は、『旧約聖書』を元にする近親憎悪の話だという、千年単位のとてつもない時間をかけた問題だと認識されている。
「エル-サレム:平安京」がからめば、たちまちキリスト教徒も登場する。
もちろん、まちがいではないけれど、20世紀からの「中東問題」とは、あんがいと「近代史」の上にあるあたらしさがあることをいうひとが少ないのも、わたしには不可解である。
おそらく、歴史的に世界でもっとも安定した地域だったのが、日本列島であるから、日本人はヨーロッパの歴史における複雑が理解できないし、そこに、もっと複雑な「ユダヤ問題」が基底としてあるとなると、もうほとんど手に負えないのである。
これは、頭では理解したつもりでも、体感的に理解できない状態とおなじだ。
たとえば、日本人が体感的に理解している、「詫び・寂び」を、外国人は頭で理解しようとして、ぶ厚い書籍を何冊も読もうが、体感的に理解するのには相当な困難を伴う。
対して、日本人は、頭で「も」理解しようとするひとは、「その筋の専門家」以外少ないだろう。
上の例の主客を逆にした、似たような話が、日本人にとってのヨーロッパというものなのである。
当たらずといえども遠からず、と、ヨーロッパ理解をしたのは、ヨーロッパから一方的にやって来た宣教師たちを観察した、織田信長や秀吉であった。
信長のやんちゃは有名だが、腐っても「織田彈正家」としての格式に沿った教育を受けたことは間違いない。
秀吉にいたっては、当時におけるまともな教育さえ受けたとは言い難いけど、いまとは比較にならない厳しい社会環境で、経験からの活きた知識を習得していた。
これらのひとたちが、ヨーロッパ人に媚びるどころかぜんぜんひるまなかったのは、おそらく、ヨーロッパ人を、「野蛮人」だと認識していたにちがいなに。
だから、「南蛮人」といったのである。
ヒトラー率いるナチス(「国家社会主義ドイツ労働者党」)は、ユダヤ人を、「人間の格好をした動物」と定義づけて、ホロコーストに及んだのは有名だけど、いまのイスラエル・ネタニヤフ政権は、パレスチナ人を、「人間の格好をした動物」だと公言している。
対して、今般、イスラエルに大規模攻撃を実施した、「ハマス」も、イスラエルのユダヤ人たちを、「人間の格好をした動物」だと公言しているのである。
さてそれで、いわゆる「パレスチナ地域」という場所は、いったん聖書を横に置くと、1897年にフランスで起きた、「ドレフュス事件」をきっかけにした、「シオニズム運動」が起きてもしばらくは、各民族共存の地だったのは事実である。
これは、パレスチナ難民を大量に受け入れざるを得なくなった北の隣国、レバノンも同様であった。
「よき時代」のレバノンは、「中東のスイス」といわれていたのである。
そんな平和なレバノンが国家としての体をなさなくなったのは、民族構成の急激な変化に、政治体制が追いつかなかったことで起きた混乱が、ずっと続いているためである。
そして、混乱がテロ組織を育成したのである。
「ハマス」を育成したのは、アメリカなのだった。
これは、アフガンの「タリバン」もそうだったし、「IS;イスラム国」もしかり、南米各地でも、世界中でおなじパターンなのである。
情報機関も、官僚が組織運営をするために、「同型パターン」がコピーされるのである。
いま、わが国のマスコミが採用する学者たちは、こんな説明もしないで、「ハマス側」に立った「解説」ばかりをしているのである。
もちろん、イスラエルの所業も褒められたものではないから、余計に、単純化は危険なのである。
そんな中、アメリカで、「BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動」のロードアイランド州での創始者・元代表(現在は離脱)が、トランプ支持を表明するという、「事件」になっている。
そして、「民主党は差別政党だ」と言明したのである。
まことに、本質を突いた話で、ようやくサヨクも気がついたようだ。
冷静になってかんがえれば、このような結論に至るのである。
しかし、ひとは、自分でかんがえているようであまり深くはかんがえない。
これもひとつの、「読解力」なのである。