職場での事故は,労働災害(略して労災)になる.
これは,会社が傷つけたことになるので,労災保険があるから大丈夫,という問題ではない.
「安全第一」は経営方針である
工事現場でよくみかける「安全第一」のカンバンや旗は,単なる注意喚起ではない.
始業前のラジオ体操も,準備運動としての意味であって,決して楽しく運動しましょう,というものではない.ケガ防止のための重要な対策なのだ.
これは,事務職でも同様であるが,ほとんどのひとが無視して,自分の机まわりでラジオ体操をするひとはすくない.しかし,音楽にあわせる習慣はべつにして,同じ姿勢を維持する事務職では,筋肉をほぐす運動をすこしでも行うと,血行が改善されて緊張していた筋肉もほぐれるから,結局は作業効率も高まり,ミスも減る.
いまはパソコンという機械操作が事務職の主要業務になったが,パソコンもワープロもなかったむかしは,ソロバンか電卓で,表計算用紙に鉄ペンやボールペンで手書きで記入していたから,書き間違えるとたいへんだった.そのぶん,いまよりも緊張して事務作業にあたっていたろう.
コピーもやっとアオ刷りだったから,ガリ版のほうが手軽だった.いまの子どもには,ガリ版といっても意味不明だろう.
事故やミスをなくすことは,当然,なのだが,なかなかなくならない.
業務として「安全」は,あたりまえゆえの経営方針であるのは,人体を傷つけてはならないのと同時に余計な手間がかかることで損失そのものだからである.
ヒヤリ・ハットの経験情報
現場の事故には「ハインリッヒの法則」があるとしられている.アメリカの保険会社のデータから導かれた,1928年(昭和3年)の論文で発表された.
「1:29:300」という数字で表現されるものだ.これは,一つの重大事故の背景には29回の軽微な事故があり,その背景には300回のヒヤリ・ハットがあるというものだから,単純化すれば,329回の「オッといけない」を経験すると,330回目には大事故が起きるという法則である.
そこで,「細部は現場に存在する」という刑事事件とおなじ理由で,現場での「ヒヤリ」としたことや「ハッと」したことの経験を,どのくらいの従事者がしっているか?ということが,重要な防止策になる.つまり,重大事故をよぶ最下層のヒヤリ・ハットが減れば,軽微な事故も減って,最終的に重大事故も防止できるという理屈である.
できない理由がおそろしい
なんだ,そんなことならすぐにでも,いわゆる「情報共有」をすればいい,とかんがえるのは「正しい」のだが,世の中,なかなかそうはいかない.
最大の理由が,事故責任のありか,である.
つまり,犯人さがし,をしたがる企業内風土があると,かんじんの「情報」がでてこない.
だれだって,自分の責任を追及されたくないのは人情である.
そこで,現場での「ヒヤリ・ハット」はなにか?と問えば,ほとんどが「うっかりミス」のようにみえるものばかりになる.たとえば,ちょっとよそ見したら手を滑らせて包丁でケガをしそうになった,とか,雨で濡れた鉄板のうえで靴がすべって転落しそうになった,とかである.
「そんなもん,自分で気をつけろよ」で済まされてしまいそうなものばかりなのだ.
これに,刑事罰の受け方,という問題がくわわる.
日本の裁判例では,現場の当人あるいは現場にいた責任者が刑事罰を受ける可能性が高い.これは,経営トップの責任が追及されにくいという面をふくんでいるし,安全責任者であっても現場にいなければ免責になる可能性があることをしめす.
どうやら,日本人の裁判官は,現場,に罰をあたえることで,注意の教訓にしようと発想しているようだ.合理的な事故原因を追及して,その原因排除を社会的にさせようという方向ではない.
つまり,現場がスケープゴート(犠牲の羊)にされる.
だから,現場では,軽微な事故なら隠蔽した方が面倒がなく楽である,ということになる.
事故報告書を書かされても,原因の合理的追求をしようというならまだしも,責任という問題まで追及されたら割に合わない,ということが起こりうるのだ.
さらに,福島の原発事故のように,「安全が神話化」してしまうと,安全のための方策が無視されることがおこる.「安全」なのだから,対策をかんがえること自体が安全を否定しうる,という発想だ.日本人の官僚は,いまだに先の大戦から重要な教訓を学んではいない.これは,齊藤誠一橋大学教授による『震災復興の政治経済学』(日本評論社,2015年)に詳しく,その驚きのメカニズムが解析されている.本書こそ国民必読にあたいするとおもう.
つまり,犯人さがしの企業内文化を形成しうる,経営トップのふだんからの心構えが,重篤な事故ばかりか,ふだんからの情報共有をさまたげることに注意したいといいたいのだ.それは,経営者みずからが,「安全第一」の経営方針にそむくことになるからだ.
できる理由をつくるのが経営である
ヒヤリ・ハットの情報共有は,上述のような社内環境がないとできないものだ.
ところが,この「社内環境」をよくよくかんがえてみると,それは,「風通しのよい企業風土」のことであることがわかる.
つまり,対象が「安全」だけでなく,業務「改善」であろうとも,従業員から積極的な情報提供がある企業文化の存在を意味している.
これは,経営者の「おおらかさ」と関係がふかい.
「まじめ」なのはいいが,「おおらかさ」に欠けると,ひとはついてこなくなる.
「きちんと」するのはいいが,本質をわすれると,組織はあらぬ方向へ勝手にうごいてしまって,コントロール不能になる.
「デフレよなくなれ!」と,最高権力者が叫んだところでどうにもならない,のとおなじである.
「安全」の追求は,「安全」の担当部署だけで達成は不可能で,組織をあげて合理的な原因の追及とその原因をなくすことの行動でしか達成できない.
上述の,ヒヤリ・ハットの例をあらためてかんがえれば,包丁の例なら,よそ見したら,に注目すれば,なぜよそ見したのか?が議論の対象だ.オーダー窓口とまな板のある立ち位置レイアウトが不合理なら,注文のたびに「よそ見」することになるかもしれない.
雨の日の鉄板の例なら,滑り止め対策をどうやったらよいかを議論することになるだろう.
経営トップと現場の一体感こそが,もっとも重要だということである.