経営者が経営者の役割を放棄して,ただの社内発注者に成り下がり,その発注根拠すら部下に丸投げするから,部下は発注そのものの意図から紐解かなければならないことが見られる.
大企業病のなかのひとつの症状だが,中小中堅企業が,これをまねてしまっていることがあるので,ウィルス性の伝染病かもしれない.
罹患した経営者の治療方法は,本人の気づきをきっかけにして,自己免疫作用の発揮しかないのだが,そもそもその才に欠けるから罹患するので,あんがい治療は難しい.
そこで,気の毒な部下が奮起するしかなくなるのである.
しかし,こうした部下にとっては,将来の反面教師として,また,問題解決の経験が職業人生に重要な示唆をあたえてくれることもある.
「こともある」というのは,確率のはなしである.
マイナス評価を企業文化にする体質なら,波状攻撃のなかのひとつでもしくじれば,かなりの確率で裏街道にまわされる.
「プラス評価が基準です」と声高の企業ほど,実際はマイナス評価をするから,なかなか一筋縄ではいかないのが現実である.
これは,評価をする側の裁量範囲と能力の不一致からくる.
結局,上司次第,という他力本願が部下に生じるのだが,一方で,その上司も部下を選べないことがあるから,はなしが複雑になる.
「適材適所」ほど困難なものはない.
「適材」とはどういうことで,「適所」がどこかを深くかんがえ,今だけでなく将来まで,自社の人員をどう配置するのか?をまともにかんがえると,まさに夜も寝られないことになるだろう.
だから,一貫してちゃんとできている企業はすくない.
そんなこともあって,経営者の集団は「優秀な人材」をもとめるのだが,困ったことに,この国の経営者の集団は「優秀な人材」とは,安易に偏差値によると理解しているから,大学から順番に高校,中学へと「偏差値『偏重』」が伝染し,ついに逆流し,果ては幼稚園から大学という順番に変化した.
その結果生じたのが,「教育問題」である.
答がきまっているから採点できる.だから,「偏差値『偏重』」のエリートは,答がきまっていない問題を解けない,とずいぶんまえから指摘されている.
これは、重大な問題で,ビジネスシーンにおいては,答がきまっているものなど存在しないし,そもそも「正解」すら,だれにもわからない.
ある課題を解決する方法をみつけて,それを実行したら業績が改善した.
それならば,その「解決方法」が「正解」かといえば,確実にちがう.
「おそらく正解に近い」としかだれにも評価のしようがない.
なぜなら,もっとうまい方法があるかもしれないからだ.
「経営活動」とは,正解の「近似値」に近づける活動のことである.
だから,成功体験が豊富な企業ほど,貪欲に「もっとうまい方法」をいつでもかんがえている.
残念ながら,成功体験がすくない企業は,かんたんに「正解」と決めつけて,改善案を拒否するから,たいがいが「ジリ貧」になるのである.
経済界が「学校教育」に口をだすのは理解できる.
社会人になるための準備をする機関であるからだ.
ところが,どうもわれわれは「教育」を勘違いしているかもしれない.
日本の「教育」は,江戸時代の寺子屋以来,「教え諭す」という概念で一貫している.
だから,いまだに教師を「教諭」という.
ところが,「エディケーション」は,「可能性を導き出すのに手を貸す」というニュアンスが強い.
この違いは,決定的だ.
しかして,わが国に「エディケーション」の文化も伝統もなく,「教え諭す」が行きついた先が「偏差値『偏重』」だったのは必然でもあろう.
すると,社会にはいってからの「エディケーション」しかチャンスがない.
「かんがえる訓練」を,最新のIT企業が重視して,新入社員からベテランまで一貫して社内研修のテーマとしているのは,しごく当然なのだ.
「二進法」でしられるコンピュータを扱うには,「ロジック」がなければならない.
だからといって,小学校から「プログラミング」を「教え諭す」のは,「エディケーション」になるのか?といえば,残念ながら,そうはいくまい.
順番がちがう.「エディケーション」のなかに「プログラミング」がなければならない.
かくして,企業内で問題解決をはかる「部下」にとって,もっとも重要なのは,「哲学」のリテラシーとなる.
若くて経験が浅いうちは,「ノウハウ本」でもなんとかなるが,中堅以上になると行き詰まる.
職業人生で40代がピークであると,なかなかわからないものだが,ピークを越えたら「維持」だけでも大変なのだ.
だから,入社から20年でどこまで経験を積み上げ,経験という「資産を増やす」かが,その後を決める.
「自己啓発」のおおくが「かんがえ方の伝授」なのも,この理由による.
すなわち,実務家にもっとも重要な基礎をなすのは,「方法」ではなく「哲学」なのである.
それは、経営者に「哲学」がなくなったからでもある.