「趣味」とつきあう

人生80年時代となってみると,生涯の楽しみとしての「趣味」の重みは高くなるだろう.スポーツ系にせよ,文化系にせよ,複数の趣味を楽しむひともおおいのではないか.また,もはや人間の子供の数よりおおくなった小動物を愛玩用に飼育するのも,一種の趣味といえるだろう.

若いときと違って,ある程度の年齢になると金銭的に余裕がでてくるから,趣味への投資もそれなりの質をかんがえれば少額ではすまない.むしろ,大好きなことだからこそ,予算に糸目を付けないというひともおおいだろう.夫婦で同じ趣味なら,いっそう張り合いもあるはずだ.

これは,「趣味という体験」を買っているということだから,けっして受身ではない.趣味人は,自身の趣味には積極的なのである.また,年齢が高くなると,「人生の先」が見えてくるから,若いときとちがって時間にたいしてより貪欲でもある.だから,ゆたかな「残り時間」のためにも,「趣味」に没頭するのだ.

「趣味」のお宿,が少ない

宿の企画で,そこに行けば仲間と会える,という商品があまりない.宿はひとが集まる場所,であるにもかかわらず,とくに「日本の宿」は部屋に引きこもることを前提としているのが不思議だ.

「なんの変哲もない」というのは,謙遜になるのだろうか?

文字どおり読めば,「変わったことも,哲学もない」という「凡庸さ」を指す言葉だろうが,日常からはなれて,気分転換もしたい,という需要に対しての施設提供が宿の基本的価値であるのに,日常とはとくに変わらず,特段の哲学もないのなら,そこは間違いなく「売れない」という結果に甘んじることになる.

こうしたお宿の経営者が,「無趣味が趣味」だったりする.関心がないのか無気力なのか,そのどちらもなのかだろうが,ほとんど「とんがった」知識がないことがある.だから、お客様の趣味にも無関心なのだ.

「趣味人」はとんがっている

ある特定の分野について,たいそう詳しいのが趣味人である.その分野にこだわればこだわるほど,実は他の分野についてのアンテナも高くなる.どこで,自分の趣味に役立つことがあるかわからないし,趣味を通じてこれまでとはちがった世の中の光景が見えてくるから,興味がつかないのだ.だから,趣味人は勉強好きである.もちろん,受験勉強のことではない.そうした知識習得に興味があるひとは,だんだんとひとりではつまらなくなる.仲間との交流がしたくなるのは人情である.だから,グループ行動をする.

いつものグループではない交流は,まさに非日常である.だから,趣味人が集まる宿をつくるのはひとつの成功のもとである.そこでの交流が,次のグループを生成すると,その宿が拠点になるかもしれない.

こうして,なんの変哲もない宿が変化する.

それには,ひとつ,主人から趣味をみつけるとよい.

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