専門学校のアカデミズムと実学の大学

世の中には、専門学校がたくさんあって、少子化はこれらの経営に緊張感をもたらしている。

わが国における教育制度で、義務教育の中学校を卒業したら、就職するか進学するか?の二択に迫られた時代があって、就職を選んだ子供のことを、「金の卵」といっていたのは、戦後の「新学制」でのことだった。

なので、彼らが就職した会社の経営者たちは、「旧学制(旧制中学とかの旧制)」のもとで教育された世代だったことは、本ブログで何度も指摘していることである。

もちろん、わが国の「学制」とは、はじめは明治政府が定めたもので、連邦政府だった幕府から、中央集権に変換するための一環としての「全国統一」という意味がある。
幕藩体制下における教育は、ぜんぜん制度化されていなくて、武士には朱子学を奨励しただけで、庶民には関心もないようによそおって放置したのは、寺子屋での浪人の稼ぎに目をつぶったからだ。

それで各藩は、「藩校」をつくれる大藩ならいいが、小藩に至っては藩校もなく、藩主のご親戚筋やらに「留学」させていたものだが、対象者は藩士の子弟だけだったのはいうまでもない。
一方、高位の家系にあたる武家ほど、『女大学』を子女に教育したのは、「嫁」になって婚家の家政を仕切ることになるからである。

ここは強調したい重要さで、じつは、わが国の「家制度」が、外国と比較して次元からしてことなるのは、他家からやって来た嫁が将来その家の家政の全権を握る、という暗黙の制度があったことなのだ。
さらに、次世代の当主からしたら、「お袋様」となって、君臨もする。

なので、高位の武家ほど、他家からの嫁に、一家を挙げて引き渡してしまうのだ。
つまり、「嫁」とは、家を乗っ取るイメージの字であるともいえる。
これを、「漢字辞典」でみれば、説文解字として、「女、人に適(ゆ)くなり、女に従ひ、家を聲とす」とあるとおりだ。

欧米的に当主側の論法だけでみたら、まったくちがう様相となるのである。
ゆえに、男尊女卑どころかその逆で、女尊男卑が暗黙の了解だったのである。
明治の欧米かぶれがこれを対外的体裁として恥じて、あたかも男尊女卑を演出していたら、それが言葉上だけの常識になってしまったのであった。

現代の、「家政学」がどんなものかの詳細はしらないけれど、家事を雑役として定義はしていないだろう。
じつは、「家政」を司ることは、子への教育という点でも、あまりにも重要なことなのである。

「北政所」から、商家の「大奥様」に至るまで、日本男性は、「家の内」では、嫁に従っていたから、「家内に相談する」が嵩じてとうとう、「神様⇒かみさん」になったのである。

この意味で、与謝野鉄幹の『人を恋ふる歌』の冒頭、「妻を めとらば 才たけて みめ美わしく情けある」の一般的解説が怪しくなる。
文字どおりで済むなら、一般的解説の通りだろうけど、そんな薄っぺらで妻晶子は納得したのか?

その晶子の作『君死にたまふことなかれ』(「明星」、明治37年)が、ポロコレの解釈で、いまは「反戦歌」になっている。
このような解釈を強制的に擦り込む文科省の悪辣は、与謝野夫妻の作品を政治利用しているのだが、孫の政治家、与謝野馨は祖父母の業績に敬意を表してはいないひとだった。

そんなわけで、いまでは高校を卒業したら、就職するか進学するか?になって、進学の低位に専門学校が位置付けられている。

専門学校の専門たるゆえんが、たいがい「ビジネス=職業教育」に直結するからである。

しかし、とっくにはじまった「少子」で、ビジネスに集中しているのは、専門学校の経営者の方だ。
どうしたら授業料(単価×人数)をとれるのか?=どんな職業分野が人気なのか?になって、たとえ就職が困難でも、その職業体験がさわりだけでもできることに、生徒の需要(親の同意も)があることに気づいたのである。

たとえば、「声優コース」は、ほとんどの卒業生が声優にはなれないけれど、講師として本物の声優と知り合えることに価値を見出している。
そんなミーハーでいいのか?というお叱りはごもっともだが、本物の声優が講義する「中身」の評価が重要なのである。

そこには、じつは、「アカデミズム」があるのである。

このことは、べつに「声優コース」にかぎられないことに注意がいる。
むしろいまどきの専門学校における、「常識」となっているのだ。

では、そのアカデミズムとはなにか?といえば、学校側や講師がどこまで意識しているのかしらないが、ほぼ、ヨーロッパ伝統の、「リベラルアーツ(自由七科:文法・修辞学・弁証法(論理学)の三学、算術・幾何・天文・音楽の四科)」になっている。

これはこれで、グローバル化の現象だから、「日本」というローカルを無視していいはずもないのだけれど、「今様=流行」こそがマーケットであり商売だとすれば、そういうものである。

一方で、「アカデミズム」を自称する、大学はどうか?を観察すれば、文科省の厳しい研究予算コントロールで、ほとんどの大学は、「職業学校」へと転換させられている。
まさに、明治のはじめに流行った、「実学」への偏向なのである。

だから、高校生向けの大学パンフレットをみると、卒業時にこんな「国家資格」が取得できる、というアッピールが目立つようになっている。

しかしながら、世の中は、もうA.I.時代になったので、就職して20年後とかがどうなのか?をかんがえないと、自身の職が確保できなくなる。

それが、「国家資格」で保証してくれるのか?という大疑問になるのである。

A.I.ができないことは、なにか?を基準にしたら、圧倒的に「判断業務」になる。
その判断の根本が、リベラルアーツの上位にある、「哲学」なのである。

「実学」は、哲学を役立たずとしてきたが、教養の最高峰にある哲学が、いまや職業人生だけでなく生存をかけた最重要となっていて、これを、専門学校がさり気なく教えていることに、大学がぜんぜん気づかないことが「偏差値基準」の最大の悲劇となっている。

ただし、家庭内教育が最重要ということが忘れられていることが致命的なのであるけれど。

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