「停滞から前進」と大書してある幟旗が、県境をこえてから目についた。
場所によっては、お祭りの「祭礼」のちょうちんのようにバタバタと連続してならんではためいているから、何事かとおもった。
とうとうやるべき公共事業のアイデアがつきて、旗屋に大量の注文がはいったのかといぶかった。
産業連関的に、いかなる経済効果が計算できるのだろうか?と。
調べてみたら、山梨県知事選が来年1月に告示されるので、すでに事実上の選挙戦に突入しているのだという。
わたしの住む神奈川県は、太陽光発電を一大推進すると公約して当選した知事が、選挙中にも指摘されていた「財源は?」の問いに、当選後「無い袖は振れぬ」とあっさり撤回して呆れたものだったが、なんと「再選」もされたから、一般市民の感覚とはちがうひとたちがたくさんいるとしかおもえない。
他県のことだから、どうぞお好きなひとをお選びください、というのが筋ではあろうが、便利なネットでの記事で、あんがい他県だから関係ないとはいえないことを主張されている。
それは、元職の衆議院議員であった与党の候補者が、まさに人脈を駆使して、我こそが国の予算を県に引っ張る、と意気込んでいるのである。
国の予算は、枠が決まっている。
だから、これは「ゼロサム」であるから、だれかが多くを得れば、だれかの分がすくなくなる。
「分捕り合戦」といえばそのとおり。
さすがは戦国武将を産んだ土地柄だ。
つまり、他県のわたしにも影響する「公約」なのである。
このような主張が、新しいのか古いのかは別にして、頼るべきは国家のカネしかない、と思い詰めているところに何ともいえない悲壮感が、武田家滅亡とかさなる。
「国家依存」を前面に政策公約としているから、より悲劇的である。
政権が鳴り物入りではじめた各種「官民ファンド」のおおくが行き詰まっていて、ついこのあいだも「2兆円の巨大資金をもつ」組織が、空中分解してしまったのは、まさに、国家や官僚という役人には「不適」ということの、教科書通りの事例になったのだが、そんなことは「関係なく」、自分が国のカネを持ち込んで、県庁の役人による「公平」な分配をすれば、山梨県はうまくいく、と発想している。
人口で島根県にまさる山梨県が、金額で50億円もすくないカネしか国からもらっていないから、山梨県民は「損をしている」というのは、神奈川県民のわたしには、失礼だが盗賊以下の「乞食」にみえる。
聴衆に卑しい感情をうめこんで、島根を恨めとせまる、たんなる「アジ演説」ではないか?
「甲州商人」といえば、近代日本の産業界にあっては「重鎮」としての位置にあった。
鉄道や百貨店などの創業者に名を残している。
しかし、不思議と彼らは、地元に産業を産まなかった。
それは、なぜかの探求が、山梨の貧しさ、だけに終始した、浅い認識ではないのか?
明治の甲州商人の成功は、明治という時代が背景にあることが軽視されているとかんがえるからだ。
とてつもなく貧しかった時代に、とてつもない成功をおさめた理由だ。
それは、本人の商才だけでなく、自由な活動を基盤としているのである。
だから、いまの甲州商人は、いまという時代から活動そのものを再構築しなければならない。
これは、場所をとわない、どこでもおなじことだ。
すると、国のカネを得ればうまくいく、という「官」の発想ではけっしてうまくいかないことがわかる。
むしろ、ヒントは「制度」にこそあるのではないか?
この国の不思議な制度に「経済特区」というものがある。
言い出しっぺは、「トウ小平」すなわち、中国共産党のトップがやった方策を、日本に輸入したものだ。
つまり、この国の統制は、共産政権下のものとおなじだから、改革の手段として「全国均一な統制の『例外』」である「特区」が有効になる。
なんのことはない、我が国の制度から独立した「自由『圏』」を「自由『県』」にすればよい。
霞ヶ関からの統制をはずせば、たちまちに「前進」するにちがいない。
ここに発想がいかないことが、与党をして悲壮感をまき散らす原因だ。
まずは、金融。
首都圏からすら東京23区周辺に流入している若者を、逆流させるには、起業のための資金提供がなければならない。
カネを持っているはずのない若い起業家に、不動産担保をもとめる金融庁から切り離す。
誘致すべきは、「事業の目利き」ができる人材で、日本の銀行では育成の方法がないから、外国の銀行家である。
しかし、金融庁の支配がなくなれば、山梨県内の金融機関が、わざわざ県庁の役人に命じられることもなく、外国の銀行家(日本人でも)を雇用すれば儲かることに気づくから、心配しなくてよい。
おとなりの静岡でやった銀行の不祥事など、起こりようがないのだ。
「停滞から前進」したいなら、このくらいのことをいってほしいものだ。
このままなら、「停滞から衰退」するのは確実であろう。
それは、もうとっくに全国の自治体が国のカネを狙っているからで、なにもこの人物「だけ」の特殊能力ではあるまい。
それを「特殊能力」だと、与党が挙げて主張するから、「世の末」なのである。
かつて、地方交付税を「受け取らない」ことが、地域の自慢であった。
もはや、乞食の精神が国民精神になってしまった。
飢えたタコはおのれの脚を喰らって生きのびようとするが、そうなったら「おしまい」なのである。