小嶋(岡田)千鶴子の話である。
「岡田屋呉服店」から「ジャスコ」そして、「イオングループ」を創った伝説のひとは、創業一家六代目の長男、卓也ではなくて、その姉、千鶴子なくしては語れない。
その千鶴子には、『あしあと』、『あしあとⅡ』という著作があるが、どちらもグループ内と取引先など関係者に配布された「非売品」のため、彼女の「評伝」は、『イオンを創った女』を読むしかない。
ただし、中古品サイトやオークションサイトに、ときたま「出品」されている。
売ってしまう、という行動は、この本の価値を理解しないからか、理解してコピーを撮ってから、高額の現金を手にしようという「二度おいしい」を思いついたかのどちらかだろう。
けっこう、いいお値段をつけている。
こないだ「会社は学校なんだよ」を書いたけど、女史はこれを本気で実施した。
そのために、自身が「驚くほどの勉強をした」というのだから、並みの学者では歯が立たないだろう。
なにせ、「実務」として「理論」を活用したのだ。
イオンが驚異的な成長を遂げたのは、「社長」との「棲み分け」をしていたからだという「説明」には、説得力というよりも「納得力」がある。
これぞ、「ナンバー2」の鏡だ。
通産官僚から作家になった堺屋太一の出世作は、『油断』(1975年)で、「本物」との関係でいえば実にタイムリーだったけど、これを執筆して発表した時点では、現役の通産官僚だった。
余談だが、大阪万博の担当官でもあった。
それから10年、1985年に出たのが『豊臣秀長-ある補佐役の生涯』である。
第二次オイルショック(1979年)の影響から抜け出せない、「日本以外」の先進国(特に英米)は、スタグフレーションに悩んでいて、「プラザ合意」で円高になった年である。
円高=ドル・ポンド安という意味だ。
それは、円から見てドルの価値が「半減」するという破壊力で、後の「バブル」の遠因となった。
その「変化」の大きさゆえに、当時は、「リストラクチャリング:事業の再構築」がブームになりかけていたから、用語としてもちゃんと「リストラクチャリング」とか、「事業再構築」とかと書いていた。
もちろん、本来の言葉の意味通りの用法なので、日本人に「まじめ」さがまだ残っていたのだが、空前の好景気(あとで「バブル」とわかる)で、すっかり浮かれた「脳」では、もう面倒くさくて、「リストラクチャリング」を正面から取り組む企業経営者が絶えたのだった。
バブル崩壊という宴(うたげ)のあとに残った「無惨」で、無責任を貫くための「窮余の策」が、「人員削減」なのであるが、これに「リストラ」という、「新語」を発明して、すっかり定着してしまった。
このあたり、言語能力として「悪知恵」だけは働いた。
そんなわけで、わが国は、これ以来ずっと、止まらない衰退が続いているのである。
要は、「リストラクチャリング」をしないといけないのに、社名やらの看板をつけかえる程度の「痛み」を「改革」と呼んできた。
だから、『豊臣秀長』の話は、「リストラクチャリング」思考で読まないといけないのである。
織田家という「コングロマリット」における、子会社社長が「秀吉」で、社長の才覚を磨いて実行指揮するのが「ナンバー2」の役割なのである。
それゆえに、「ナンバー2」を失うと、組織が弛む。
わかりやすい企業の例では、「本田技研工業」の、本田宗一郎と藤沢武夫の関係もしかり、なのである。
世界のホンダは、本田宗一郎のワンマン・独裁ではぜんぜんなかった。
すると、この30年間で、わが国企業に「ナンバー2」がいなかった、ということがわかるのである。
もっといえば、ナンバー3にもなれないような人物が、トップになり続けた悲劇だ。
これは、会社が「学校をやめた」から、ともいえるのだ。
ひとは勝手に成長なんてしない。
むしろ、放置すれば退化してしまうものだ。
こういう目から、女史の履歴を確認すれば、60歳で一線から身を引いて、今年105歳になったのだから、45年前のことである。
つまり、「1976年」になるから、『油断』が出た翌年だ。
いま、イオングループがあるのは、女史による社員教育の成果としかいいようがない。
そして、いまは、最後の世代が引退する時期を迎えている。
だから、これからが、「正念場」だということがわかるのである。