国家であれ企業であれ、はたまた個人の人生で、人材育成には、教育が必要だということに反論はないだろう。
しかし、どんな人材を育成したいからこの教育をするのだ、という「関連付け」ができていることの方が「稀」なのである。
これは一体どういうことか?
前に書いた「無能」が無能を再生産する「連鎖」が効いてくるのである。
ゆえに、このような組織は、なにも特定の企業だけではないけれど、組織のトップが自ら「教育に関与せず」、むしろ、担当者に「丸投げ」する傾向が高くて、その担当者が、組織目標の達成について強い意識を保持していればまだしも、これが抜けると「担当者の趣味」が反映されることになる。
それで、その担当者が無能なら、似たような組織やライバル企業でやっているから、とか、研修を販売している企業の「既製品」的な教育プログラムを、そのまま購入することが「業務」になって、パンフレットにある「目的・効果」もコピーして決裁書に貼り付けるのである。
そんな決裁書を決済する無能な上司は、自分の組織の目標もなにも意識しない無能があるから、部下がコピペしてつくったことすら「目的合理的」だと判断して判を押し、こんな無様をトップは気づきもしない無能がある。
こうした「連鎖」の背景にある共通点は、テストの点数だけで生きてきたことがあるので、「答がおなじ」ならばそれでいいのである。
このようにして、どんな人材を育成したい、が永久にないものを採用できる基盤が完成すると、その組織には「慢性的」に人材不足が発生する。
このことが、あたらしいビジネスを生みだして、いま流行の「転職あっせん」になっている。
「あなたのキャリが意外にも他社では高く評価される」
この「意外」なキャッチフレーズは、無能と有能の狹間で揺れ動いたひとへの「オファー」になるらしいけど、自分の評価を自分で出来ないのも、テストの点数だけでの評価の延長なのである。
それで、どんなデータをあらかじめ入力するのか?への思考が抜けていて、その程度の自分のデータだけをみてオファーをする相手先の無能を見抜くことができない。
あるのは、「年収」と「肩書」という「餌」しかないのだ。
すると、この程度の餌に釣られる人材を、採用する側はどうみているのか?となれば、そこにはもう、「ユニット」としての扱いでしかないので、むかしの「組織の歯車」よりも、もっと明快な「道具」として扱われることの無感覚がみてとれる。
そんなわけで、「教育」は、社会の根本的な部分を担っていると、あらためて確認できるのである。
さてそうであるなら尚更に不思議なのは、江戸幕府も平安朝も、国民教育を「放置」していたことにある。
律令制における「式部省(のりのつかさ)」配下にあった「大学寮」も、元から官位を持つものに入学を許された官員養成校でしかなかった。
ちなにみ、この式部省が「文部省」に名前を変えたのは、758年から764年の間だけだった。
なので、一般人の教育レベルは「高いはずがない」状態だったはずなのに、『万葉集』などの歌集に応募するひとがたくさんいたことは驚きに値する。
しかも、それは誰からの強制ではなくて、自主的だったろうから、もっと驚くのである。
結局のところ、身分制における上位だけに高等教育を施したともいえるけど、それがいかほどの「高等」だったかは、いまと単純比較できない。
それは、いまよりもしっかりしていた面があることは明らかだからだ。
しかも、寿命が圧倒的に短かったことも、考慮しないといけない。
だとしたら、やっぱりいまは、政府によって意図された教育がされている。
それが、暗記させる教育なのだから、余計なことはかんがえさせない、がその意図になる。
そうやって、周りからつくった各種制度のなかに国民活動を閉じ込めたら、政府の意のままに社会を誘導できるので、少しだけ自分でかんがえるひとは、その制度を利用するか、反発するかに二分する。
もちろん、利用する側が圧倒的な「お利口さん」であるから、これが社会の主流派となって、反発するものは「ばか」だとして脇に置かれる。
けれども、だんだんと政府の邪悪な意図が見えてきたら、ごくわずかだけれども「ばか」が増えてきている。
そしてこれが、民間のなかで広まり出すと、あんがいと強敵になってくるのは、自分でかんがえるひとたちだからである。
それがいま、「ナショナリスト」という括りになって、世界潮流になりつつある。
この理由は、政府の意図通りにしていたら、困窮化するのがみえてきたからである。
しかし、世界政府をつくりたい「グローバリスト」は、世界的飢餓をつくって、それをもって最終的な「支配の構図」をつくりたい。
なので、「貧乏」が、これからの対立軸の「接点」になる。
いうがままの貧乏に甘んじるか、反発するかだ。
そこに、民主主義という制度がどのようになるのかもあるから、世界は「政治の時代」になるのである。