手間を食べる

手間ひまかけたり,ひと手間くわえたり,およそ「美味しいもの」には手間がかかっているから,食べる側は食材のほかに,手間を食べている.
だから、「美味しいものを食べさせたい」となれば,手間をかけなければならない.

「働き方改革」による「生産性向上」を柱にうちたてた首相も,「美味しいもの」を食べるなら,それは手間がかかっているから,しっかりした単価のお店に行かねばならない.もちろん,一国の首相がいく店だから,相応の単価だろうが,「生産性向上」なのだから,もっと支払うことで単価をあげて,国民に範をみせなければならない.

日本料理が世界遺産になったとよろこんでいるが,職人の育て方が従来どおりのままだと,作り手が減るから,需要と供給の原則から,おそろしく高価な料理になるかもしれない.それがねらいなら,なかなか遠大な作戦である.しかし,「日本料理界」に指示命令系統はないだろうから,なんとなく上記の「目標」が達成されることだろう.
「生産性向上」に間違いなくなる原因が,「なんとなく」であることになる.

どうして,日本料理の職人のかずが減るとかんがえるかは簡単である.
もう,西洋料理では調理師学校でも若くして「オーナーシェフ」になるためのプログラムがはじまっている,ということをこのブログでも書いた.
料理人の目標は,洋の東西をとわず「一国一城の主」になることだから,文系で勤め人になって,あわよくば役員に出世できれば,というものとはまったくちがう.

たとえば,「見習い」という,文字どおり下働きをしながら先輩たちの仕事を見て習う,という期間が最低3年と聞いただけで,最初から選択肢からはずれる.
高校の「調理科」は,「工業科」や「農業科」とくらべて全国的にみても圧倒的にすくないが,大人気という理由は,料理の基礎を3年で習得できて,さらに「高校卒業」資格までもらえるからだ.しかし,あんがい注目されていないが,「調理科」では,「経営」まで教えている.もっとつっこんで,従業員のつかいかたもあればよいとおもう.ただし,それでは三年間ではたりないかもしれない.

以前,公立の高等専門学校の先生に,「専門」なのはいいが,「マネジメント教育」が抜けているのは残念だとはなしたら,「校長」に進言したいと仰った.実現していないから,まことに残念だ.
どんな分野でも,専門性を追求して成功すれば,だいたい組織の長になる.べつに「マネジメント教育」は,上司のためだけのものではないが,「人間作り」では不可欠だ.

「工業高校」や「農業高校」,「商業高校」などの実業教育でも,「マネジメント教育」が欠如してるようにみえるのは,教職員も教育委員会という役所も,実務経験者がいないからだ.
どうやったら稲や野菜が育つかは,たしかに重要だが,どうやったら「売れる」のかや,「儲かる」のかということが欠如しては,実業教育として「手抜き」である.
まるで農協依存になるようにさせているようで,始末の悪い大人たちではないか.

少子の時代,教育における重要ポイントは多様性の確保ではないか?
つまり,もっと「進学」における選択肢拡大の重要性である.
たとえば,中学校から技術系が選択できてもよいし,それでいながら高校で合流できるのもありだ.
日本人は,いちど進路を分岐させると,そのまま合流しない一直線をイメージするが,からみあって結構,という仕組みがあっていい.

まもなく,国立大学でさえも統廃合の時代がやってくる.
すでに,文科省は一校ずつだった国立大学法人の複数校化をゆるす方針をうちだしている.つまり,「国立大学」といえども単独では維持できず「事実上の倒産」を認めるようになった.

このながれは,国立高等専門学校でも避けられない.
わがくにの教育制度上,ほとんど唯一の「『天才』教育機関」だが,「理系特化」という特徴がある.

「味覚」は個人の持って生まれた感覚のひとつとしられている.十歳の男子がもつ「味覚」がもっとも敏感だということもさまざまな実験からしられている.
かつて,わがくにをを代表する料理人は,小学校時代から丁稚奉公で当時の一流料理屋に勤めていた.このときの「つまみ食い」が,生涯をもって忘れなかった「味」ではなかったかとすれば,辻褄があう.

すると,「国立『料理』高等専門学校」設立,という手間をかけることの意味はおおきい.

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