世の中に「ダブル・スタンダード(二重思考)」がはびこってきた。
これは、『1984年』を書いた、ジョージ・オーウェルが、全体主義の典型的思考方法として、作品内でたくさんの「事例」でもって説明してくれている。
たとえば、「戦争は平和だ」とか、「うそ」しか国民に伝えない役所(放送局)を「真理省」というとか。
しかし、いつの間にか「政府そのもの」(その集合体である「国連」も)が、「真理省」になったので、ほぼすべての「政府発表」(国際機関)が「うそ」だという世の中になってしまったのである。
つい先頃では、コロナに関する受験生の差別的決定をした文部科学省に、「苦情が殺到した」ことを根拠として、「首相」が再検討を命じる、というどちらに転んでもガッカリするような体たらくを演じた。
これぞ「ポピュリズム」ではないか。
ぜんぜん民主主義ではない。
むかしの自民党なら、文科大臣をすぐさま更迭して、ついでに事務次官が責任をとって辞任するという「けじめ」をしたはずだ。
日米首脳共同声明の「同盟関係」という言葉に「軍事的意味はない」と言った鈴木善幸首相を護るために、伊東正義外務大臣が辞任表明したら、高島益郎次官も辞表を出したのだった。
それでもって、ふつうは駐米大使になるものを、責任があるからと「駐ソ大使」になったのである。
おそらく、ソ連側がドキッとするほど「嫌」だったにちがいない。
このひとは、日中国交正常化交渉において、周恩来から名指しで「法匪(法の虫)」と罵られたことを、外交官の「勲章」に解した英傑である。
最後の「職業外交官」といわれたのは、本人には名誉ではなくて後続がいない、という意味では心が折れんばかりの苦悩もあったろう。
いまは、ただの「外務官僚」に墜ちて、復活のきざしもないのは「平均化」の悪い面がでているからだ。
彼の赴任で、当時のソ連駐在は「ツートップ」という、わが国には偶然にも国益に合致する人事となった。
ナンバー2の、特命全権公使は、将来の皇后陛下の御尊父で、「二枚刃」といわれた小和田恆氏であった。
ちなみに、この時期にモスクワの日本大使館は、「建て替え」という一大事をやっている。
これが、「一大事」なのは、盗聴装置の設置についての「覚悟」ということである。
「文科行政」という範疇でいえば、まったくこの「事例」にあてはまるほどの「不祥事」であるのに、けじめもとれない政府を運営している自民党の腐り方が半端じゃないのだ。
首相ひとりが単独で腐っているのではない。
その「腐敗」の原因と結果が、「社会主義」なのである。
社会主義とは、国家(地方も含む)が集めた国富(税以外の国民負担も:たとえば公的年金とか公的健康保険、あるいは赤い羽根募金なども)を、国家が「再配分」する制度を、ほとんどすべての分野で行う「主義」のことをいう。
放送や出版物で、わが国の体制を「社会主義」と断定すると、さまざまな軋轢を生むので、これを回避するために、「社会主義的」といって「的」をつけておとなはごまかすけれど、要は「社会主義」といいたいだけなのだ。
それで、「観光」という分野にも「業界」があるから、「すべての業界を支配する」社会主義政府は、かならず「業界向けの予算」をつくって、集めた「国富」を分配するのである。
だから、受け取りに徹する「業界企業」は、その予算の意図に応じた事業をしないと「お貰い」ができないので、自社事業の位置づけさえも変更して、とにかく「乞食」になることを率先して目指すようになるのである。
貨幣経済が発展すると、カネの亡者になるひとが出てくるけれど、こうしたひととの付き合いは、かならず「カネの切れ目が縁の切れ目」になるものだ。
だから、予算が尽きない限り「絶対安心」の「カネ蔓」となる。
社会主義のもっともまずいことは、「絶対安心」だから、事実上「国家と心中」するという覚悟がいるのだけれども、国家の存在はあたかも「永遠」に見えるので、「絶対安心」だけが先行する。
そうやって、民間企業の経営が「腐る」のである。
だれが社長をやっても、「絶対安心」なので、独自に考えることをやめる。
むしろ、余計なことはしない方が「得」だから、社員にも考えることを「禁止」するのだ。
この「行動原理」が作動すると、その企業は「ゾンビ化した」といえる。
しかし、ゾンビは自己評価として、自分がゾンビだと認識できないから、どんどん「増殖」して、とうとう国富を食い尽くすのである。
それが、「ソ連崩壊」という歴史事実の隠しきれないストーリーなのである。
そんなわけで、「観光庁」の来年度予算が決まった。
1本だと誰にでもわかってしまうので、わからないように「複雑」な建て付けにするのが、「撫育資金」をはじまりとする「萩藩」伝統のやり口で、国会に報告義務がないという、摩訶不思議な「特別会計」はもとより、とうとう「一般会計」にもこの手法を導入した。
「一般財源」は、141億円、「観光旅客税財源」は、81億円。
あわせても、たったの222億円だけど、「コロナ対策新・GoTo予算」は、1兆3240億円で、さらに経済対策関連予算で1200億円がくっつく。
これに加えて、「観光産業の付加価値向上支援」なる怪奇なバラマキで、5.5億円、「ポストコロナのコンテンツ形成支援」で5億円、「持続可能な観光モデル事業」に1.5億円があるのだ。
カネの切れ目が縁の切れ目を、「持続可能」というのは、日本語としてもいただけない。
安くなるからと喜々として自分が払った税金の「戻り」を期待する、乞食のようにされた国民が、シロアリのごとくに日本国を食い始めたのである。
都会人の自分が居住している「ふるさと」の税収を破壊する、「ふるさと納税」も同じだ。
これも、邪悪な日本政府が仕向けて、国民の奴隷化を図っていることだ。