みんなしっている、日本の政治は腐っている、けどやめられない。
腐らせた主犯が国民なのは、「民主主義だから」だけれども、その要因に、「小選挙区」という選挙制度もあるし、選挙区落選でも比例復活というインチキもある。
それに、参議院が独自の選挙制をとれないままになっている。
さらに、わが国の地方議会は、ぜんぶ「一院制」だ。
どうして「二院制」にしないのか?
「保守」を強く標榜する小政党も、そのほとんどが「一院制派」で、国会も一院制に「すべし」との主張には、まったく同意できない。
二院制を求めるのには、当然ながら理由がある。
そのキーワードは、「相互けん制」である。
議会が一院制だと、暴走した場合の制御が効かない。
あるいは、眠った議論を起こさせないといけないけれど、起こすひとがいない。
もちろん、議会には行政をけん制する役割がある。
そのための「立法権」がある。
すると、地方議会にだって、行政と分離した議会事務局が必要になる。いまの制度は、行政に議会事務局が属している。
だから、議会が行政に指示されてもそれが、「当然」になるのだ。
この「当然」を、議員自身が当然とするから、地方議会も死ぬしかない。
「市役所」が、信号機でも、「CITY HALL」と英訳されているのは、中世ヨーロッパから、都市の中心に広場があってそれを教会堂と市庁舎、買い物市場がそろっていることを指したからである。
いまでも、ヨーロッパに行けば、どこの街も「これらのおなじ構造」をしている。
そこで、ヨーロッパからの観光客が日本に来ると、この「ワンパターンがない」ことに、えらく新鮮さを感じるのである。
日本の役所にあるのは、せいぜい「広場と市庁舎」で、まず教会はないし、買い物市場もない。
財政難の横浜市が建てた、新しい市役所の設計は、この意味でヨーロッパ的だし、家賃収入を狙っている。
ただし、村野藤吾が設計して保存がきまった以前の市役所は、「魚河岸」の跡地に立っていた。
外国の歴史的建造物である市庁舎が、いまだに「現役」なのは、行政範囲がわが国のように肥大化していないだけでなく、「戸籍がない」から、戸籍課もない。
なので、市民が市役所にいく用事とは、議会への「陳情」なのである。
旧ソ連には、「ゴスプラン(国家計画委員会)」という、計画経済を仕切る=実際に資源配分をする役所が、いつもごった返していたのは、議会への陳情が無意味だからである。
就職してわずかの若い役人相手でも、とにかく自社の窮状を訴えて、配分の優先順位をあげてもらわないと原料が供給されないのだ。
ソ連が崩壊した理由としてあげられるやり方だけれど、70年もやっていたのは、「素晴らしい」から、この役所の研究がもっとあっていい。
この点、おなじ社会主義でも、わが国の役所はもっとスマートに資源配分を決めるから、さいきんの「接待」もちんけで済むのである。
そして、この方法を、隣の大国がしっかり学び取った。
教えたのは、当然わが国の役人である。
なにしろ、ソ連型のやり方では、大量の国民(8000万人ほど)を「粛正」しても、食べていけないことに気がついたのだ。
遺体処理をどうしていたのか?は表にでてこない。
つまり、テッパンの牙城が完成しているのがわが国の姿だ。
無理やり粛正せずとも、真綿で首を締めるのごとくだから、より一層国民は政府に依存し、よって政府は「生殺与奪の権限」を極限まで高めることができる構造になった。
ラッキーなことに、コロナがこの構造に加わって、なんの科学的根拠も、事前の基準発表もなく、驚くほどの暴力的政策で「自由経済システム」を攻撃・粉砕したのである。
敵はここにいる。
しかしながら、こんなモンスター化した「システム」の敵に向かっても、ゴジラに対する自衛隊のように、歯が立たない。
そんなわけで、「保守」というひとたちは、本来は自陣営のはずの「自由主義」を攻撃して、あろうことか「政府側」につくのである。
じつは政府と与党に、政策で一致している野党は、その存在意義がなくなったことをしっているし、逆に、その存在意義は、プロレスでいう「ヒール(悪役)」でしかなくなって、これを、「保守」がダメ出しすることになっている。
まったくのプロレス化だ。
本物のプロレスだって、ぜんぶが「八百長」ではない。
そこに、ファンの血が騒ぐのである。
すると、わが国の体制が、プロレス化した後、急速にシラケたのは、ほとんどが八百長だとばれたからである。
首都圏知事たちの無能と無責任すら、有権者の責任だとなるから、つぎは選挙そのものが無力化するのは当然のなりゆきである。
笑いが止まらないのは、ゴジラ化した政府であった。
すると、あの映画における自衛隊とは、無力化した国民の姿なのである。