製造業にはあるという「教育出張」は、人材育成のツールとなっている。
内田百閒の名作とも迷作の『阿房列車』のごとく、「なんにも用事はないけれど、出張に行く」ことで、大きな会社なら全国の工場見学、小さな会社なら社会見学に社員が出かけるのである。
自社工場ばかりではなく、全国の他社工場でもいい。
とにかく「見聞をひろげる」ことが目的だから、べつに工場見学でなくてもいいから、「教育出張」なのである。
予算があろうがなかろうが、行きたいと思ったら社員が手を挙げる。
上司が「必要性」をみとめるので、ちゃんと「日当」もでるのである。
ただし、通常出張の「半額」が相場のようである。
しかして、どんな「必要性」を上司が感じるのか?は、かなりあいまいだ。
内心で「そろそろ順番だ」ということもあるし、見学先がユニークだから、ということもある。
このご時世なのに、続いているのは「無駄」ではないからなのだ。
マーケットの状態をみにいくから、マーケティングの担当者が行く、ということではない。
技術者だろうが、工場勤務者だろうが、はたまた事務屋だろうが、「行く」と言ったひとが行く。
そこに「新鮮な発見」が期待されているからである。
たとえば、鉄鋼メーカーのひとなら、ある意味どこでも対象があるから、どこへでも行く。
「鉄」は、文明生活のあらゆる場所にあるモノなので、どこでもいいのである。
それで、メーカーでは考えつかないようなアイデアがみつかれば、それはもう「儲けもの」である。
逆に、どこでもいい、ということがないと「発見できない」リスクが生じる。
鉄という製品は硬いけど、頭脳は柔らかさが要求されている。
ひるがえって、ソフト産業であるサービス業で、「教育出張」という用語を聞いたことがない。
あんがい、石頭なのがサービス業である。
さいきんでは、業績のよい旅館が、「休館日」をもうけて、全館で休んでいる。
予約の問い合わせに、「満室です」といって断るから、ふつうの利用客にはわからない。
むしろ、「満室なんて人気の宿の証拠」とおもわれて、いっそう都合がいい。
休んで都合がいいとは、なかなかの「発見」である。
それで、オーナー一家だけでなく、従業員も引き連れて、競合あるいは評判の宿にお客として宿泊するのである。
むかしからの旅館は、年中無休があたりまえだったから、ほんとうは自分がお客になったことがない。
それを「おもてなしの宿」とかいっておだてられた。
はりきって新しいサービスを追加するけど、自分がお客としての素人なもんだから、余計なサービスを自画自賛する神経がある。
季節労働で、あちこちの宿での勤務経験がある女子学生のほうが、よほどこのへんの価値基準はしっかりしている。
そんなわけで、休館日があって「教育出張」する宿と、そうでなく年中無休で「貧乏暇なし」の宿の差が目に見えて開いてきた。
そのうち、どちらさまもまねっこして、わが国から年中無休の宿がなくなってしまうのではないか?
中途半端に開けておくなら、閉めてしまったほうが楽でかつ経費もかからない。
けれども、どのあたりのレベルが判断の基準になるかは、ちゃんと「計算」しないとわからない。
じっさいに、こうした「計算」ができないでやってきた。
それで、やっぱり「計算しない」で、横並びにするだけしても、元の木阿弥ではないか?
こんな心配をしないといけないのが、宿である。
まだまだ、工業の世界から学ぶことがたくさんある。