わが国の政治シーンで、保守系の動きがあたかも活気を呈しているようだが、どうなのか?
元TBS記者のジャーナリスト、山口敬之氏が、先月29日に、自身のSNSチャンネル生放送で、明確な解説をしたので書いておく。
それは、話題沸騰の、「日本保守党」と、いまや老舗の、「参政党」との違いの解説である。
結論からいえば、日本保守党は保守ではない。
導いたのは、『綱領』を読む、という単純作業からである。
およそ近代政党には、企業でいう「経営理念」にあたる、「綱領」は必須の文書だからである。
なぜか?
もはや古典になっている、アルフレッド・D・チャンドラー。Jrの『組織は戦略に従う』(1962年)の題名そのままだからである。
企業の「経営理念」も、政党の「綱領」も、戦略の最上位概念をさす。
つまり、この文書に従って運営されるのが、組織なのだ。
また、近代政党の3つの要件にある、「綱領」以外の2つに、「組織」と「議員」があるのも必須なのである。
ましてや、国家を担う政党にあっては、近代政党の要件を満たさない、ということは、本来ならば許されることではない。
しかし、日本人は、このような重要ポイントを学校で習わないので、ぜんぜん要件未設定の自民党が政権与党として君臨できるのである。
自民党の致命傷は、「組織」がないことにある。
いやいや、議員の後援会がある、というのはしっている。
しかし、自民党の議員がつくる後援会とは。「自分党」としての組織であって、「党組織」ではない、という欺瞞があるのだ。
例が悪すぎる悲惨があるが、公明党と共産党の組織こそが、近代政党の「党組織」というものなのである。
そんなわけで、この要件をぜんぶ満たしているのは、参政党だけ、となっているのも寂しい限りだ。
さてそれで、「綱領」の比較だ。
参政党は、ハッキリと「グローバル全体主義に対抗する」とある。
日本保守党には、こうした表現がないのである。
立ち上げたのは、作家の百田尚樹氏であり、ジャーナリスト・評論家の有本香氏という、文章のプロたちだ。
先に結党し、国政政党となった参政党の綱領は、この二人なら精読して研究したはずである。
なにせ、主張のほとんどが、「かぶっている」からである。
山口氏が解説をしないといけないほどに、リクエストが多数あるのも、一般人には、おなじに見えるからである。
しかして、日本保守党が、グローバル全体主義に対しての脇が甘い、ではすまされないのは、受け入れているからである。
それは、ウクライナ戦争の評価にも現れていて、両人はともに、ウクライナ支援派(=反ロシア)一辺倒なのである。
つまり、脇が甘いのではなくて、意識的に、グローバル全体主義を支持している。
いうなれば、RINOとおなじなのである。
常に冷静で実直な、渡辺惣樹氏は、「保守」を定義して、常に歴史に照らして立ち止まってかんがえることができる態度だ、としている。
まさに、価値観が揺らめく傾向がある、「保守」の本筋を一言で表現するのはお見事だ。
すると、まだ国会議員がひとりもいないで、正式には、「諸派」にすぎないのに、また、議員がいてもほとんど報じられない参政党に対して、なぜにマスコミは日本保守党をおだてて一般人を煽るのか?もみえてくる。
似非、だからである。
あるいは、現代用語的には、「ビジネス保守」というのがただしいのだ。
上で触れた渡辺惣樹氏は、北米在住のビジネスマンだった。
「余暇」として翻訳した、『裏切られた自由-フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』すなわち、遺族によって封印されていた、大著、「フーバー大統領回顧録」の出版以来、いまでは作家業の方が忙しいのではないか?
その渡辺氏が直接語りかける、「そうきチャンネル」で、アメリカ保守勢力の台頭の話題が少ない光明になっている。
ルイジアナ州知事選挙で、民主党の知事が敗北し、共和党の知事が誕生したが、勝利した人物の前職は、同州の司法長官で、2020年には、ミズーリ州司法長官と連名で、バイデン政権がやったSNS企業への言論統制が、憲法違反だと訴訟を起こしたひとである。
アメリカという国は、州というふつうでいえば国家の連合体なので、州ごとに大統領(「知事」と呼ぶ)やその他の公共に関する職務は、ほとんどが選挙で選ぶことになっている。
ルイジアナ州知事は民主党員であったのに、司法長官が共和党という「ねじれ」が生じるのは、珍しいことではない。
しかし、基本的にルイジアナ州は、レッド・ステート(共和党のイメージカラー)であったのが、どういうわけか前回選挙で、民主党知事が誕生してしまったのである。
そんなわけで、ルイジアナ州は今回、圧倒的な得票で共和党が奪還したのは、どうやらアメリカ人も民主党の卑劣なやり方にうんざりしているようなのである。
また、先の裁判は、7月4日(建国記念日)に、暫定命令として、連邦職員がSNS企業に接触することを禁じたのである。
「似非」を見抜けないようにされている、日本の悲惨は、日本人自身が気づくしかない。