最後の20歳「成人の日」

映画『マトリックス』に「はまる」と、コンピュータ・プログラムによる「支配」という、物語のコンセプトについて考えたくなる。
なので、ネットではこの「分析」をしたひとたちが多数、投稿していて、持論を展開している。

本当はただ寝ているだけなのに、接続コードを脳に直結させて、脳をプログラムでコントロールする、という「洗脳」の方法が新しかった。
その意味で、伝統的な「繰り返しの強制」による洗脳とは、まったくちがうやり方だ。

しかし、目的は「洗脳」であって、一個の人間を意識的・思想的に「改造する」のであるから、方法はどうであれ、「結果」がおなじでより効率的ならそれでよい、ということになる。

非伝統的、あるいは反伝統的な物語でGHQ好みな、戦後の日本人が生んだ物語はたくさんある。
なかでも、巨匠「手塚治虫」が原作の、『マグマ大使』(1966年~1967年:フジテレビ)は徹底的で、日本神話を無視した「アース」という創造主を創作した。

この物語に出てくるのが「人間もどき」という「下等生物」だ。

ふつうのひとを「コピー」して作り出す、という発想は、医学博士にして「党員もどき」の混合によって生まれたのだろう。
そして、アースが作りだしたのが「マグマ大使」だった。

ここで重要なのは、「児童向け」という体裁をとることにある。

つまり、手塚治虫作品には、「共産主義」という「毒」がしっかりと埋めこまれているから、じつは、児童に気軽に彼の作品を見せてはならないのである。
これが、「巨匠」にして、国民栄誉賞を受賞「しない」理由でもあろう。
ただし、ご遺族には「勲三等」が授与されている。

「門前の小僧習わぬ経を読む」というように、成長著しい子供の脳は、繰り返し見聞きした「モノやコト」を、無意識で「暗記」する能力を発揮する。
これが、「言語」と結合すれば、それが、「母語」となるのである。
だから、宣伝につかう音楽には、必ず「歌詞」が付くのも、脳に定着させるための「必須要件」なのである。

このことが、「暗誦」という人類共通となる。

古い日本人の上流(=武士)階級にあった、「素読」とは、「四書五経」の暗誦をさせたということだ。「百人一首」もそうだ。
これが宗教社会では、ユダヤなら「トゥーラ」、アラブなら「コーラン」を子供に暗誦させる。

西洋社会なら、聖書の「詩篇」とか、プロテスタントのドイツにおけるユダヤ家庭なら、ゲーテの『ファウスト』とかの人類文学の金字塔作品を暗誦させる。

10歳ぐらいまでにこれを、「やる」と、その子供は、一生忘れない「記憶」の最深部に定着して、よしんば「ボケ」ても忘れないのである。
そして、「暗誦」の効果のもう一つの共通は、「意味」は後からついてくる、という実際があることだ。

これは、暗誦することができるようになって、さらに時間が経過して本人が「成長」すると、かならず次のステップとして、「意味」を理解するようになる、ということだ。
この二段階で、さらに記憶に強く定着させることになるから、これに反するものに反発するという「人間形成」となるのである。

つまり、人間の子供への暗誦の強制は、その社会の常識的知識を「埋めこむ」ということが、将来の「知的有利=指導者」としての「素養」を造るという「実利」にもつながる。
よって、そのような「伝統社会」の「破壊」を試みるひとたちには、「反強制」という言い分で、これをやめさせようとするのである。

だから、「初等教育」の重要性は、言い過ぎることがないほど「重要」なのである。
しかも「初等教育」は、なにも学校「だけ」で行うモノではないのは、この時期の子供の脳は、あらゆるモノ・コトを吸収する貪欲さに溢れているからである。

このことが、「育ち」を決定づける。
「育ちのよさ」とか「わるさ」、「お里がしれる」とかは、おとなになってからの修正が効かないので、本人にはどうにもならない。

こうしてみると、わが国の「教育の荒廃」が意味するものとは、「反強制」を言った側からしたら、「正しい方向」に向かっている、という評価さえできるものだ。

では、そのような「反強制」を主張するひとたちは、いったいどんな「教育」を受けてきたのか?と問えば、これがあんがい伝統的で、教師に「従順な子供」だったりするから、「成績優秀」なのである。
もちろん、「家庭」でも、「先生の言う事を聞きなさい」と伝統的に教育されていて「素直」に応じているはずである。

すると、じつは「伝統」が「伝統を破壊する」ということになっている。
これが、「保守主義」の最大の「欠点」なのである。
だから「何を保守するのか?」をたえず確認しないといけないのだけれども、「反強制」を言われると、同意してしまう弱さが恨みとなるのだ。

ではこの「破壊」の源流はと問えば、やっぱり「占領時代」という「暗闇」にたどり着く。
先に育っていた「学生」のおとなたちへの「反乱」が、「70年安保」に代表されるものだとしたら、その後の「児童」による「反乱」が、『金八先生』のドラマの「素」という社会現象の「基」になったと考えられて、「青春もの」へと成長するのだった。

この時代までは、「反乱の理由」がおとなにも見えていた。
そのおとなとは、「70年安保」経験者をいう。

それからは、もう「理由すらわからない」という時代に突入して、何年も経つ。
それは、壊された子供が親や教師になって、もっと子供たちを破壊しているからだろう。

これを、「行政」によって修正するのは不可能なのに、文部行政「しか」修正の方法がないと考える「浅はか」が、破壊を増幅させているのである。

さては、何を子供に暗誦させようか?
これすらも、おとなが決めることができない社会になってしまったのである。

それでも、今年は4月1日から、18歳で「成人」という、1割も年齢を繰り下げた、初の「改正民法」が施行されるから、来年の「成人式」は、新20歳だけでなく新19歳、新18歳もいれたトリプルでの、貸衣装バブルが起きるのだった。

成人、おめでとう。

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