企業活動で「安全」といえば、スローガンがうたわれる。
これが、月替わりで掲示されるものだ。
「安全第一」は、うそではなく、会社にとっても働くひとにとっても基本にあって、当然とされている。
ところが、事故が絶えない。
安全が第一ではなくて、「なんとなく」ないがしろにされている。
これを「工学」としてかんがえるひとがいる。
人間は間違える動物であるから、「絶対」はないのは仕方がないけど、事故を容認するするわけにはいかない。
それで、事故を防ぐ技術をかんがえるのである。
しかし、「うっかりミス」ということが事故原因のほとんどだ。
この「うっかり」を研究しないといけない。
すると、やっぱり機械の方ではなくて、人間の方が問題になる。
慣れ親しんだ作業だと、からだが覚えていることもあって、あまり深くかんがえずに「なんとなく」やっていることがある。
これが、「注意1秒、ケガ一生」につながる「うっかり」を生む。
しかし、人間は集中や緊張感を持続させることがむずかしいので「ついうっかり」がでてしまうのだ。
だから休憩時間が必要なのである。
強制的に休憩させることまでするのは、過酷な環境での作業や危険作業ではあたりまえだが、軽度の作業だっておなじである。
つまり、作業スケジュールのなかに、休憩時間を無理なく強制的にふくめる段取りが重要で、必須のことになる。
しかし、これがなかなかできない。
きまったルーチンならいいが、変則作業のなかにあらかじめふくめるのは、あんがいと面倒なことだ。
この一種の「手抜き」が、事故につながるのである。
いま、さかんにいわれている「AI」への期待とは、従来ならば複雑で優秀な機械をうごかすのに「プログラミング」が必要だったものを、これからは、機械が勝手に学習してじぶんで動いてくれることである。
つまり、人間の側の「手抜き」が正当化されることへの期待だ。
残念だが、このような機械に代替できない、おおくの作業の現場では、なにも変わらない、ということが発生する。
つまり、本当の手抜きがまかり通ることになるし、それをまた深くかんがえてはいないのが実情である。
俺たちの仕事は仕方がない。
というあきらめでもある。
それでも事故を防ぎたいなら、毎度の変則作業であっても、機械に「プログラミング」をするつもりで作業分解し、危険や事故が予想できる作業上の注意点をあぶり出しておくことは無駄ではない。
これを、仲間で共有して、声かけを心がけながら、じっさいに声かけをおこなえば、かなりの安全性が確保できるはずである。
しかし、現場によっては一人での単独作業になることもままある。
であれば、指差点呼をふくめ、自己チェックの訓練をほどこすことが効果的だ。
たとえば、路線バスの運転手は、安全のためにこうした訓練を受けている。
さらにいえば、安全帽や安全眼鏡の着用をうっかりしないで事故になるケースもある。
ちょっとだけ追加作業をするような場合であったり、着用が面倒くさいといった場合である。
このときの本人の「心理」は、着用の手間と不快感に対して、安全性の比較をしているものだ。
このときの「基準」は、過去の経験による。
だから、ベテランほど危険で、実際の事故も、この道何十年のベテランが引き起こすことが目立つのだ。
こうなると「うっかり」よりも、さらに「確信的」になっている。
「まぁいいか」
上述の比較判断を瞬時でおこない、その判断ミスが事故になっているのである。
では、なぜこのような判断をしたのか?
そこにひそむ「心理」にこそ、経営者は注目しなければならない。
それは、表面上の「自己過信」である。
しかし、これを「慣れ」からくる「自己過信」として結論づけてはいけないのだ。
その深部には、「自分は特別だ」という心理があるからである。
なぜこのような心理になったのか?
周辺との立場や、経営者たちへの感情すなわち「不満」が、「俺様は特別なのだ」という感情を形成する。
もちろん、こうした場合、「周辺」とは後輩や自分より能力が低いとみなす同僚たちを指す。
その感情が、ルールを破っても問題ないという理屈になるのである。
けれども、大きなルールを破るわけにはいかない。
それで、極々小さな、しかも、現場だけにあるルールを破るのだ。
結果的に、安全帽や安全眼鏡を着用しない、ということになって、とうとう事故を引き起こす。
これを「欲求不満行動」という。
だから、上司は、こうした行動をみつけたら、その場で注意するのは当然だけど、しっかり「心理」の深読みをすべく、行動観察や面談をして、おおもとにある「欲求」を満たすか、なにかで代替することで本人の「欲求不満」を削除するか低減させることが必要なのである。
人間の心の側面は、個々人によってちがう。
だから、AIがすばらしい、とはいかないのである。