「もったいない」が世界でブームになったといっては、これを自画自賛する。
なかなかの「ナルシスト」ぶりをするのである。
いつからこんな国民性になったのだろう?
もうそれは、夏目漱石『草枕』が指摘している。
つまり、この小説の時代背景である「日露戦争」のころになる。
幕末、国際政治的には強引に開国させられたわが国ではあったが、横浜の港における「税関官吏」のまじめさは、そんな事情にこだわらない外国人入国者を感嘆させていた。
草枕冒頭には、有名な一文があって、受験生なら暗記させられるから覚えたむきもおおかろう。
「智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。」
智は「知識」、情は「人情」、意地は「意思」と置けば、ビジネスにおける心理学の「核心」にあたる。
先頭の文字をとって、これを、「知、情、意」という。
なお、「棹」は「さお」と読む。竿竹をみなくなって、字も読めなくなった。
漱石のこの指摘は、まったくそのとおりで、「知情意」とは人間がもつ「三つの心的要素」のことだからである。
よって、なによりも三方の「バランス」が重視されるものだ。
正三角形の中心から三つの頂点に線を引いて、これにメモリをつけてグラフにすれば、バランスの善し悪しが視覚化できる。
いわゆる「ハラスメント」は、この「バランス」をうしなった心理状態でうまれるものだ。
だから、加害者を罰することだけでは事後処理しかしないことになってしまう。
予防には、「三つの心的要素」をセルフ・コントロールするための「訓練」がひつようなのである。
浅はかになった日本企業は、組織をあげてこの「訓練」を、経費削減の対象にした。
それでいて、「コンプライアンス」や「社内統制」にはコストをかけている。
ふつう、こうした状態を、「砂上の楼閣」というのである。
高学歴で、優秀なはずの経営陣が、なぜにかくなる「愚策」を実行し得て、なお、それを「恥」ともおもわぬのか?
わが国の「教育」で、人間の「三つの心的要素」のうち、「知だけ」が重視されるという「バランスの欠如」がそうさせているからである。
学校教育だけでなく、家庭教育においても、はたまた社会教育においても、「知だけ」という価値観が、「優秀=知=学力だけ」ときめつけて、「情」や「意」が軽視されすぎた。
つまり、三角形がかけない「一辺」だけの「線」にしかならないものが、「エリート」になってしまったのだ。
だから、組織の上から下まで、「仕事ができない」。
企業における「仕事」とは、「価値創造」の活動のことをいう。
一辺しかないものたちがあつまって、購入者という人間を感心させることなんてできっこないから「売れない」のである。
『草枕』は、おそろしく深い「心理描写」をしているので、物語の本筋とは関係のないような、「胃痛」とか、なんとはない「会話」があるが、これがないともっと漱石がいいたいことがわからなくなるはずだ。
「ドイツの三B」の最後のひとり、大作曲家ブラームスは、そのレコード解説で「一音も無駄にしなかったひと」だというものを読んだことがある。
作曲家で「音を無駄にするひと」がいるものか、と読みながらかんがえた記憶があるからおぼえている。
小説家なら、一文字も無駄にするはずがない。
三B筆頭の大バッハは、楽譜に音符の濃淡をつかって、十字架をえがき、そのたもとにじぶんの「名前」BACHを数字譜から音符に変換させて書き上げた。
もちろん、音楽として演奏できて「傑作」のひとつになっている。
これぞ「職人技」というひとがいるけれど、わたしには「知・情・意」の三つがそのまま突き抜けたとしかおもえない。
大バッハの生涯は、苦難もあったがしっかり幸せな家庭を築いている。死別した先妻に4人、以下タイトルの後妻とは13人の子をなした。
元は創作の作品だが、おおくの事実とすこしの嘘で綴られた『バッハの思い出』を原作としているモノクロ映画(1967年、西ドイツ・イタリア)である。
すると、ほんらいは生まれてからの生活のなかで育まれるはずの「情・意」を、人生のどこで補完するのか?
これができなければ、物とおなじに人も扱われる状態が「文化」になってしまうし、すでになりかけている。
むかしは、職場に尊敬できる先輩や上司がいたものだ。
いまは、望むべくもないかもしれない。
「知」にすぐれ、「情・意」に欠くものこそが、「情・意」をにくむからである。
もしや、「文学」系の大学しか、「情・意」をまなぶ機会がないのかもしれない。
漱石が嘆き、みずからも神経衰弱に悩んだのは、「西洋化」という「合理」のなかに「不条理」をみたからだろう。
滅びゆく「旧き日本」を英語で記録したのは、岡倉天心『茶の本』、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『代表的日本人』だった。
いまや、彼らすら歴史の中にあって、現代日本人とは別人種になり果てている。
物も人も大切にする日本人は、死滅したのか?
そんなことは、あるまい、と信じたい。