犬に向かって話しかけるひとをみかける。
むかしのひとは、「犬畜生」という常識があったので、犬に話しかけるのは「命令」だけであったけど、いまは「赤ちゃん言葉」や「幼児語」だったりする。
もしや、「幼児回帰願望」だろうか?
それとも、自身を「いいひと」に見せたいがゆえのことなのか?
どちらにしても、かなり「病んでいる」ことはまちがいない。
それはそうで、わが国の飼育状況は、とっくに人間の子供の数より愛玩犬としての数の方が多い。
とくに、猟師の高齢化で、猟犬の数はかなり減っているはずだし、室内飼育が当然になったので、番犬の数も減っていることだろう。
ただし、躾ができないことによる残念な「番犬化」はよくある。
これは超小型犬を中心にみるけれど、玄関先に気配を感じると、とにかく「吠える」のである。
そういえば、うるさい犬の代名詞が「スピッツ」だった。
いまはあんまり見かけないのは、「吠えない犬」がつくられているからだ。
なので、「吠えない犬」を買ったのに、「吠える」といって「返品」するひとがいる。
それでもって、「売れ残った」らどうするのか?をかんがえることはない。
にもかかわらず、こういうひとほど「動物愛護」とか口ではいうから、人間とはげに恐ろしき動物である。
ぜひとも、「aibo」で我慢するくらいの精神力を持って欲しい。
さて、犬は、「自身の大きさ」の認識力がどれほどあるのか?
大型犬が超小型犬より序列が下、という現象をみかけるからだ。
これは、小型犬の方が「防衛本能」が強く出て、「気性」が荒いのが特徴であるからだろう。
なので、家庭内の序列形成に失敗した人間との生活で、犬の方が「上」、あるいは、自分が「ボス」だと思いこんだ場合、番犬化するのである。
つまり、小型犬が飼い主たち人間のボスとして、よそからの攻撃に警戒・対抗している姿なのである。
これは犬にとっては、たいへんしんどい。
24時間。気を抜いていられないからである。
このストレスが、飼い主たち人間に向けられると、典型的ダメ犬になる。
しかし、ダメ犬だと思っているのは躾ができなかった人間なので、これを「因果応報」というのだけれど、そうはいっていられないほどに犬が君臨すると、もはや「同居」が不可能になる。
食事と排泄の世話をすることも、飼い主には恐怖を伴う面倒になるからだ。
そんなわけで、わが国における「殺処分」の実績は、世界から非難されるレベルになっているけど、例によって「産業優先」という戦時体制が継続しているので、「動物愛護法」の改正もままならない。
ペット業界優先という悪政の結果なのだ。
そこで、姑息なことをする自治体は、殺処分数をごまかすために、自治体が殺処分するのではなくて、「ボランティア団体への譲渡」という方法をおもいついた。
もちろん、ごく真面目な団体の方がおおいだろうが、なかには怪しいものもある。
それでいまでは、一部の「引き取り専門業者」が、極悪の環境下で「飼い殺し」するという方法までやっている。
近代の生活は、「文化住宅」の普及にはじまった。
むかし、「家庭科」で、文化住宅の典型的構造を習ったものだ。
その特徴は、便所と台所が共用ではなくて、各戸ごとに独立させたのを「文化的」といったのだった。
いまではとっくに、「死語」だろうけど、日本人が文化的になったわけではない。
しかしまだ、文化住宅の普及がはじまったころでも「くみ取り便所」がふつうだった。
なので、街中を「バキューム・カー」が走っていたし、路地にはホースが転がっていたものだ。
もちろん、わが家もそうだったので、汲み取りの現場をふつうにみていた。
これが大変革を遂げたのが、下水管の敷設による「水洗化」だったのである。
タンクのレバーをひねれば、たちまちにして流れ去って、どこにもなかったことになる。
よって、ついいましがたまで、自分の体内にあった物の「その後」について、いちいちかんがえることをしない。
たまに、大型下水処理場の近くを通ると、ここにくるのかな?とおもうのである。
そんなわけで、飼育放棄した場合の「愛犬だった犬」のゆくえも、元飼い主たち人間は気にとめないのだろう。
けれども、こんな具合だから、人間の子供についての教育も怪しくなるのである。
ここでいう、「教育」とは、「生き方」とかのまさに、「躾」をいう。
日本人は、「教育」を、「学校教育」とか「受験教育=勉強」だと思いこまされた。
しかし、教育の根幹には、「人間として生きていくための学び」があるし、これがない教育はただの「プログラミング」だ。
法律は最低限のルールを書いたものなので、教育基本法も「最低限」のことだし、むしろ、「人間として生きていくための学び」については、守備範囲にしていない。
この理由はかんたんで、「人間として生きていくための学び」は、家庭教育が基本になるからである。
しかしながら、その家庭教育が崩壊しているのである。
なぜかといえば、さいきんの母親の言動をみていると、自分の子供を子供として扱っていないのでわかる。
ではなにとして扱っているか?といえば、「もう完成された人間として」、なのである。
この「倒錯」は、学校教育からのものなのか?なんなのか?
ひとりふたりのことではないから、なにか組織的な「母親教育」でもあるのだろうか?
しかも、こうした場にいる「祖母たち」の同様な態度が気になる。
なるほど、こうやって犬と人間の区別がつかないのだ、と気づいた。
まったくもって、人間側の劣化なのだ。
そうやって、水洗便所の汚物のように、時間が流れていって気がつけば、「成人」するのである。
成人とは、脳の発達が止まるので「成人」なのである。
だから、「人間として生きていくための学び」を成人にさせる「再教育」は、もはや「刑務所内」でしかやらない。
その効果と成果は、再犯率にあらわれる。
「人間の親の責任」は、「飼い主」としての「犬への責任」とかわりがないばかりか、人間相手なら重大なのは当然なのである。
それでもって、社会に出たら今度は、企業が「育成」責任を負わされることになったから、そのコスト分、給料が増えないのだ。
しかして、若手の部下は上司を真似るものである。
なので、もし、上司が情けなくて、自分の子供ばかりか新人の躾ができないでいるなら、いまは居心地が良くとも、将来は危ないとかんがえた方がいい。
自分が「猟犬」や「警察犬」のようなむげなる扱いを上司から受けているとしたら、それはあんあがい「ラッキー」なことなのかもしれない。
そんな環境で時間が経てば、人間なら、自分でかんがえることも「強要」されるから、「成長」する可能性が高まるのである。
これが、命令だけの刑務所に期待できない、「娑婆」にいる有り難さなのだ。
犬は飼い主の鏡なので、ダメ犬とは、飼い主のダメを表現して歩いている。
同様に、子供は親の鏡だ。
子供への「人間として生きていくための学び」を教えない親は、おそらく「老後」にとんでもない扱いを受けることだろう。
これも、因果応報で、それがいま、負のスパイラルになりはじめて、「相続」されているのである。
このことは、意図された「教育制度・システム」になって「文化破壊」しているので、文部科学省こそまっ先に廃止すべき「廃棄物」なのである。