政府が信用できない。
「民主主義」の「体制下」において、あり得ない事態である。
この「体制」での政府の存在意義は、「国民への奉仕」であるからだ。
それが、どういうわけか「国民統治」になってしまった。
当然ながら、政府を仕切るのは「政権」なので、現在与党の責任となる。
この意味で、国民が民主党に期待し、政権交代を判断したのは、自公連立政権にダメ出しをしたことが主因であった。
残念ながら、その民主党政権のお粗末があんまりで、自公連立以下だったから、ふたたび自公連立政権が復活したのは、「選択の不自由」のためだった。
一方で、この間、国民にはSNSが普及して、既存メディアだけを情報源とする国民と、ネット情報源を猟歩する国民とに分離して、既存メディアを情報源とするひとたちの「保守」と、そうでない「保守」とにも分離した。
「前者」が、自公連立支持であり、それは、「既得権」の「保守」を意味する。
「後者」は、選択の不自由ゆえにおおむね「無党派」ということになって、「既得権」についても批判的なのである。
わたしは、「保守」という概念に批判的であるから、ほんとうは使いたくない「用語」である。
その理由は、「保守」にはアンカーとなる「基準がない」からだ。
その国や国民の歴史やら政治・文化の価値観が、「保守」には基礎となるから、それぞれ別々になってしまう。
たとえば、共産主義・全体主義国での「保守」とは、共産主義・全体主義の強固な推進派をさすし、名誉革命以来の歴史的価値観が根強い英国においての「保守」は、現在・過去・未来が一体となった概念である。
それゆえ、あたらしくできた、アメリカ合衆国における「保守」が何を意味するかは、あんがいと難しくて、ようやく「建国の理念」を「保守」する、ということに落ち着いて、民主党とその価値観を分けている。
すると、わが国における「保守」とは何か?
アメリカよりも、もっと難しいことになったのは、「日本とは何か?」とか、「わが国の建国の理念」がわからなくなったからである。
わからなくなった理由は、敗戦によってそれまでの価値観が破壊されたからであるけれど、幕府が崩壊して新政府ができたときも「破壊」があった。
それでもって、島崎藤村の実父の「発狂」を描いたのが、『夜明け前』だった。
いまとなっては、明治維新が日本の「夜明け」だったのか?すらも、疑問符がつく、「英国世界支配」の「一環」として、「内戦」をやらされたのが「戊辰戦争」だったという説がある。
まだ幕府があった時代の横浜に、はじめてできた外国商館が、ジャーディン・マセソン商会の支店だったことは事実であるし、トーマス・グラバーはこの会社の幹部だった。
もちろん、「アヘン」貿易で莫大な利益を得た企業である。
すると、わが国政府は、政治家ごと、明治時代にシフトして、「利権」を「保守」することだけの政府に成り下がった、といえる。
しかし、「無党派」が50%を占めるから、多数の国民は、こうした「利権」に批判的なのである。
これはどこからやってくるのか?
おそらく、日本人のDNAにある、「道徳観」が本能的に残っているからだろう。
なぜなら、とっくに学校教育、とくに義務教育の場において、児童に道徳観を埋めこむことすら「していない」状況があるからだ。
むしろ、「破壊」を「保守」するひとたちは、「させない」ことを「正義」としている。
にもかかわらず、道徳観があるのだ。
そんなわけで、厚生労働省がやった、コロナにおける「統計データ改竄」は、あきらかに「利権」の「保守」なのである。
すなわち、ワクチン接種をしたひとと、していないひととの「感染具合」や、「重篤化具合」についての「データ」をさす。
HPでの公表だから、これを観た名古屋大学名誉教授が不信感をいだいて、厚生労働省に問い合わせたら、「翌週」からの発表データが、「様変わり」してしまったのである。
どうなったかといえば、ワクチン接種したひとの感染具合も、重篤化具合も、摂取していないひとの方が「良好」になってしまった。
その理由は、データ処理の不具合だったという。
接種した日時が不明なひとを、「未接種」にカウントしていた、というお粗末だ。
しかして、ワクチン接種しない方がよかった、という驚愕を、厚生労働省が認めた、という意味なのである。
さてそれで、いま開催中の「ダボス会議」である。
ここにモデルナの社長が登場して、余ったワクチン廃棄をしないといけなくなっている、と涙目で訴えた。
当初の約束通り、「購入・納品受付せよ」という意味だ。
一方で旧東側の各国は、EU委員長宛に書簡をだして、当初の約束通りワクチンを購入できないと訴えている。
国民からの需要が、またたく間に減衰したからだ、と。
自由を「制限してきた」近代の歴史がある「東側」は、いまや「自由の砦」になっていて、ずっと自由を「謳歌してきた」自由主義の「西側」で、政府による「強制」が合法化される逆転となっている。
それがオーストラリアの政権交代にもなったのは、政府の「強制」に国民が嫌気をさしたからである。
さては日本政府も西側のお仲間なので、苦しいデータ改竄までやってみたのだろう。
結局のところ、「国民衛生」も「政治」になって、「科学」は一歩も二歩も下がってしまった。
これに、「名誉教授」が学者の「名誉」をかけて反論したということだ。
残念なのは、「現役」教授が、言えない、という「利権」がある「まま」になっていることである。