現代と平安時代の文化比較

リアリティを喪失すると、ファンタジーと現実の区別ができなくなって、かなりのトンチンカンな言動となる。

もしも完全に、ファンタジーと現実の区別ができなくってそのままなら、それは一般的に精神に異常をきたしたとして医療機関のお世話になるハメとなる。
残念ながら、わが国は、世界一の精神病棟・病床数を「誇って」いて、500万人が「病気だ」と診断されている、世界一の精神病国家なのである。

もちろん、こんな状態になりたくてなったわけではない。

それでいわれている原因の第一が、ストレス社会、という妙な共通認識なのである。
では、わが国は、いつからストレス社会になったのか?
あるいは、ストレスへの耐性がなくなったのは、どうしてなのか?

こうした、社会的要因とか、外部環境要因とかをかんがえると、おのずと「歴史認識」という方向へと向かう。

たとえば、1000年前の平安時代とは、どんな時代だったのか?
基本的に、戦争がなかったので、「平安」だったというけれど、果たしてほんとうか?

むしろ、「イェルサレム:エルサレム:アルサラーム:The 平安」ということで、平安を願って付けただけの都の名前だったのではないのか?

短命だった「長岡京造営」では、親王クラスの暗殺があるし、「天神様」になった改革派、菅原道真も政変で左遷の憂きの目にあう。
そもそも、藤原氏の台頭は、応天門の変による、政敵、大伴氏と紀氏を排除してのことだった。
後期には、平家の台頭と、陰謀がセットになって、「乱」になり、ついには源平合戦になったのだ。

平城京の木簡から、1万人をこえるペルシャ人官吏の名簿が発見されて、むかしからの伝説、平清盛は碧眼(青い目)だったことから、平家ペルシャ人説まであるのだ。

さて、平安時代を描いた作品として、高校現代国語の定番といえば、芥川龍之介の『羅城門』にちがいない。

ここに登場する主人公は、「下人」である。
1950年、ヴェネチア映画祭で金獅子賞をとった黒澤映画の、『羅城門』は、同じく芥川の『藪の中』をもとに橋本忍が脚色した作品だ。
やはり、主人公は、「下人」なのである。

おかげで、『羅城門』は、二つの話がこんがらがるのである。

 

平安時代といえば、『源氏物語』と『枕草子』が双璧で、『古今和歌集』が思い出されて、王朝絵巻のイメージがある。
それで、木村朗子『平安貴族サバイバル』(笠間書院、2022年)が、現代人のサバイバルと「似ている」としているのは、なかなかに興味深い。

圧倒的多数であったはずの、農民や、都会に巣食う下人のことではなくて、貴族のサバイバルと現代人の生活を比べているのだ。
その根拠に、現代になって顕在化してきた、「格差社会」という現実を強調している。
著者がスポットをあてたのは、貴族社会における出世競争なのだ。

しかも、生まれもった序列を突破するためには、学問を修めるほかなかった、と。
つまり、著者は現代人の受験競争を指している。

しかし、これらは本書の「つかみ」であって、決して浅はかをあげつらっているのではないから、念のため。
逆に、王朝内の教養競争は、男を凌ぐほどに激烈化するのは、権力の源泉が娘の子が次期帝になること一点に集中していたからである。

これは、江戸期から戦後まであった、「公娼制度」に転移された。
富裕層の男性を籠絡するのは、女性の教養が第一であったのだ。
それがまた、夜の銀座にも引き継がれて、ときのひとにまでなる「ママ」とは、まったくの教養人であった。

ヨーロッパだと、ヴェルディが残したオペラ、『La traviata:道を踏み外した女:椿姫』が代表的か?
ただし、こちらは教養が強調されているわけではない。

平安後宮での常套句に、「女にて見たてまつらまほし」がある。
女にしたいというほどの美男子、という意味だから、「美少年」ということだ。
女性がうっとりするほどの男性を指す。

かつての、「ジュリー」(沢田研二)や、ピーター(池畑慎之介)が、黄色い声を集めたのとおなじ感覚だろう。

だが、本人というよりも、熱狂する女性たちの教養はいかがだったのか?とあえて意地悪なかんがえをめぐらせば、前にも書いた、「女大学」の廃れ方こそが恨めしい。
子育てを男女問わず共同で行うべきとの強制が、子供のための発想ではなく、ヘンテコな「男女同権」の押し付けだというのは、子供からしたら母と父の役割のちがいを本能的にしっているからだろう。

中勘助の驚異的な記憶力が冴える、『銀の匙』は、相手がおばさんであってもそこに母の姿を重ねているからだとおもうのは、わたしのはるかな記憶の中にもあるからだ。
母が母性をもっているからではなくて、子供が母性を慕うのであって、父に母性を期待する子供はいない。

この意味で、平安貴族の女性たちは、母性よりもなによりもいまそこにいる男性(貴族)の寵愛を欲したのであった。
それがサバイバルなら、確かに今様なのかもしれないが、あくまでも上流階級だけの話である。

庶民は?
いつだって、『藪の中』なのである。

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