人口減少や少子で人手不足がすさまじいから,生産性向上というはなしが,さかんになった.
そのために,最低賃金を大幅にあげるとよい,という議論まであるようだ.
たしかに一理ある.
そうすれば,売上単価をあげなければならなくなるから,生産性は向上するだろう.
しかし,単純にそれができない.
その理由は,経営者の無能にあるというひともいる.(わたしもそのうちのひとりだ)
ところが,もっと困ったことに,無能なひとほど他人のはなしをきかない.
それゆえ「無能」なのだ,とはなしがループする.
そこで,目線をかえたい.
そもそも,なんで貧乏なのか?というはなしだ.
「日本人は総じて貧しい,だがかれらは高貴である」と評したフランス人がいた.
このフランス人は,日露戦争がはじまることがいよいよ迫って,高貴なる日本人が地上から滅亡してしまうと嘆いたのだ.まさか,あの大ロシア帝国との戦争に,日本が勝つとはおもっていなかった.
このはなしよりも前,幕末にあの有名なシュリーマンが来日している.
「シュリーマン旅行記 清国・日本」は,かれがトロイの遺跡を発見する「前」のはなしだから,それだけでも興味深いが,横浜の港に着くところからはじまっている.
当時の船旅は,引っ越しをするようなものだから,とてつもない荷物がある.へんなヘアースタイルで,みすぼらしい木綿のスカートのようなものをはいた役人が,おそろしくゆっくりと丁寧な所作で,荷物検査をはじめたから,彼はどこの国でも役に立つ「袖の下」作戦をこころみるが,そんなことをしたら「ハラキリだ」といって相手にされなかった,というエピソードからはじまる.
「わたしは西洋人がしらない文明国にやってきた」と感嘆する.
だから,日露戦争までの開国期,日本人は上から下まで,「総じて」貧しかったのである.
しかし,この貧しさはずっとつづいて,ヨーロッパが第一次大戦で疲弊したとき,大戦景気で「成金」が雨後の竹の子のようにでたが,戦争がおわるとみごとに破産して,やっぱり貧乏になった.
これに,シベリア出兵が引き金で全国に米不足の不安で米騒動が起きるから,当時の世相はいまとはぜんぜんちがうとわかる.
政府は不足の米は補助金蒔いて朝鮮で開墾させた.このとき蒔いたのが「亀ノ尾」で,この米の曾孫が「コシヒカリ」だ.それで,安くてうまいと評判になって,首都圏流通の四割が朝鮮米の亀ノ尾になる.東北の米はまずくて高いが,東北出身の工場労働者が故郷のためにと購入した.
それから,関東大震災で首都が壊滅し,この復興にとんでもない費用をようしたが,アメリカで株が暴落し,世界恐慌になったらなぜか円と金の交換を再開して昭和恐慌になる.
昭和恐慌は,米の凶作とあわせて東北は深刻な飢餓になり,娘の身売りが風物にもなった.これが軍をしてクーデターへの行動となる.
ちなみに,震災のときの朝鮮人虐殺事件は,朝鮮米の怨みを東北出身者が晴らしたとのはなしもある.
日本では食えないと,ハワイ移民がはじまるのが明治18年,南米は明治32年だが,昭和4年に震災の後始末(ひとあまり)もかねてブラジル移民がはじまる.昭和7年に満州国が成立すると,やはり移民政策がはじまる.もっとも,明治元年には,ほとんど奴隷として日本人が連れて行かれている.それより前,慶応3年に,後の総理大臣,高橋是清はオークランドで奴隷の身でいた.
「狭い日本にゃ住み飽きた」とはいえ,食えないほどに貧しかったのだ.
ということで,資源のないわが国のひとびとは,国内においても低賃金であることを前提にして生きてきた.それで,なんとか外貨を得た.だから,長時間労働もふつうだった.
低賃金,長時間労働は,近代日本国の「国是」だった.
これが,資本主義発祥国の英国という島国と,決定的にことなる点である.かれらは,先行者有利のなかで,自国に資源がなくても,海外植民地からの収奪によって富を得ることができた.
余裕の資本主義国は,社会主義からの批判と攻撃で,自国労働者の権利が確立していく.それは,海外労働者の犠牲によるものではあったが,可能な福祉を享受できたのは事実だ.
英米の労組が,わが国とちがって職業別になっているのも,「資源国」のなせるわざであり,戦後本格化するわが国の労働組合結成が企業別になったのは,企業ごとに労働条件がちがいすぎたし,とにかく社内で結束しなければ,食えなかったからである.
これが,わが国の薄っぺらな豊かさの原因であり本質である.
英米とは,前提条件がちがうのである.
そこで,現代日本における生産性向上の策は,労働協約をきちんと締結させることではないかとかんがえるのだ.
「36協定」の意味さえしらないで働いているひとがたくさんいるのだ.
そんなことをしたら「事業が成り立たない」と叫ぶ経営者もたくさんいるだろう.
しかし,「事業」とは「ビジネス」のことである.
労働基準法を遵守したらビジネスが成り立たない,と正々堂々といえるものなのだろうか?
つまり,それは「ビジネス」ではない.
さらに,勘違いされてはこまるのだが,なんのための「労働協約」なのか?ということをちゃんとかんがえたい.
それは,真の労使協調を意味しなければならないとおもうからだ.
「法」は最低限である.だから、好調な企業は,法の基準のはるかうえの条件をはたらくひとびとに提示できるのだ.
人手不足が恒常化する人口減少時代,企業の競争力は顧客獲得競争よりも,優秀な従業員獲得競争に転移する.なぜなら,富を生み出すのは人間だけだからである.
従業員がいない会社は存続も存在もできない.
こんな条件ではたらけるものか,といわれるのは,なにも賃金だけではないだろう.
「労働協約」すらない企業に,だれが就職するのだろうか?
だから、政府は余計なことをやるまえに,現行法でもじゅうぶんだから,労働協約を締結させることをすればよく,労働団体は,中小零細企業の従業員に,教育,というサービスをおこなうべきである.
かんたんにいえば,政府は企業の採用活動に,労働協約の有無や内容,労働組合の有無や加入基準についての表示義務を課せばよいのだ.金商法や不動産賃貸契約でさえ細かい規定になっている.
労組は,かつての政治闘争を「教育」サービスに加えてはならない.だから,労基署の入口にかいてある,所管地域登録の社労士を講師に依頼すればよい.つまり,労組による労働教育ファンドの立ち上げだ.労働協約から労働組合設立にまでいければ,ファンドにお金が還元できる.
はたらくひとは自分が「はたらいて稼ぐ」ということの意味を,はたらかせるひとは,「他人の労働力を買う」ということの意味をきっちりかんがえることができるようになる.
これが,生産性向上のための重要な条件ではないかとおもう.
逆にいえば,このままでは,低賃金・長時間労働という明治以来の「国是」が変わらないし,それではわが国の繁栄は,百年ほどのつかの間の「奇跡」という「人類の歴史の一部」になってしまうだろう.
大企業ばかりが企業ではない.
むしろ,大企業をささえる中小零細にこそ,一見厳しくても変化が必要なのである.