神奈川県が、「県独自の緊急事態宣言を発令する」と決めた。
どこにそんなことができる「法的根拠があるのか?」を、だれも質問しないばかりか、口にもしない。
「法治」とは、「丸投げ放置」のことだった。
なってはいけない人、選んではいけない人に、なさせてしまった「罪と罰」が、神奈川県民にブーメランの刃が刺さる。
黒岩知事と県会議員たちのことである。
黒岩祐治というひとの「無能」については何度か書いた。
とにかく、最初の選挙では、神奈川県の全戸に太陽光発電パネルを設置すると公約して、当選して予算がないと知ったら早々に撤回した「実績」をもつ。
これを「元政治部記者」があっさりとやってのけたのだ。
それなのに、さらに二回も当選して、三期も知事をやっている。
選んでいるのが県民だから、ひどい目にあっても責任は県民にある。
しかし、首長には「リコール」という手段もあるから、窮鼠猫をかむ県民はこれをやるのかやらないのか?
さらに、どうにもならない「議会の無能」がある。
いったい何人の議員がいるのか?
さらにさらに、県下の各自治体の首長もそれぞれの議会も無反応だ。
「県知事さま」のご意向は、かくも絶大だったのか?
「官選」の知事ならまだしも、なんのための「民選」なのか?
まったくもって、理由から問われる大問題だ。
元を正せば、昨年の「特措法改正」が主因であった。
この法律で、「緊急事態宣言」が合法化されて、とうとう発令したからである。
つまりは、安倍内閣の時代であった。
日本国憲法に抵触するおそれがあるばかりか、自治体が「藩化」して、都道府県知事が「藩主になる」可能性があると書いたけど、その通りになった。
そして、幕府たる中央政府はコントロールを失うと。
理由は明白で、「宣言の発令」は、中央政府の権限を大幅に都道府県知事に渡すことが「主旨」だからである。
それで、こんどは、「収束宣言」をだしたら、「元に戻る」と考えたのは、役人国家の役人の頭脳が「単純」の上に「傲慢」だからである。
権力を持つ人間が、一度権力の味を知ったら、元には戻れない。
古今東西、そういうことを繰り返してきたのが人間の歴史なのだ。
わが国エリートの中のエリートたる、「官僚」の浅はかさこそが、知事たちをモンスターに変身させた。
命令一下、中央政府が与えた権限を返納する「はず」にはならず、これを「保持」することに全能力を使い出す。
まことに、人間らしい態度をとっているともいえるけど、その権力を住民のために使わないで、権力者の自己陶酔に使い出すから始末が悪いのだ。
これを「やらせた」のも、安倍内閣の時代である。
なにせ、第一回目の緊急事態宣言をやめるとき、都道府県知事に権限を戻すように「言わなかった」からである。
犬を躾けるときに、飼い主が曖昧な態度をとれば、もはや「躾」どころか「勘違い」を助長して、かえって飼い主を下にみるように「訓練する」ようなもので、このときの内閣の曖昧な態度が、知事たちの「権力本能」を活性化させてしまった。
なぜに「言わなかった」のか?
それは、「いい子」になりたい志向が強力だったからである。
誰も敵にはしたくない。
もちろん、このときの内閣の要、「官房長官」は菅氏だった。
いま総理になって、「嫌われてもやるべきことはやる」と発言したのは、まさにこのことの「反省」かもしれないけど、残念ながら、「犬と同じ脳」しかない「権力志向」の本能をむきだしにした人間を躾けるには、もう遅いのである。
その典型が、都知事であり、大阪府知事であり、とにかく東京都知事に「勝手に」ライバル意識を持っている神奈川県知事なのである。
このことは、間違った「ベンチマーク」を設定することの不幸でもある。
神奈川県知事は、社会的に何もしない、という選択をして、実質的に「成功」した、スェーデン式をベンチマークにすべきだった。
当初いろいろいわれたけれど、「今」となっては、その政治選択の「正さ」は完全に証明されたからである。
さすれば、神奈川県「独自」の緊急事態宣言とは、「何もしない」ということに尽きる。
すなわち、「飲食店の営業自由」を宣言することで、「酒類販売の自由」はおろか、「マスク着用をやめる」ことなのだ。
しかも、ワクチン接種中止も宣言すれば、おおいに「男が上がる」はずなのに。
こうしたことを「させない」議会は、なにをやっているのか?
地方議会とは、「立法府なのだ」という意識がないのではないか?と今さらに確認できる無惨である。
まったくもって、嘆かわしい、としか言いようのない出来事である。