東京のただのベッド・タウンに落ちぶれた横浜市には、これといって美味いものはない。
それは、横浜中心部の衰退をみれば明らかで、貿易港として栄えたかつての発信力と購買力を失ったからである。
その象徴は、全国に10カ所しかない「アップルストア」が、横浜市内に「ない」ことでわかる。
鶴見川を越えて、川崎まで行くか、川崎を通り越して東京に行くかという選択しかないのだ。
しかも、東京なら、銀座か表参道という選択肢もある。
これをいうと、ならば「誘致」しようといいだすひとがいる。
そういう発想法が、衰退を呼ぶのだとまだ気がつかない。
アップル社は、「経済原則」にしたがって出店しているのだ。
その原則に無理な力を加えることを、「介入」といって、結局はその無理がかえって衰退を促進するメカニズムになるのである。
わが国の観光地は、たいがいが「点在」ということになっている。
街の景観も、食事の名店も、点在しているのが常で、なかなか「面展開」がない。
それで、一応「横浜中華街」が、珍しくも「面」を形成している。
だから、横浜には美味いものがない、というと、かならず反論があるのは承知している。
しかしながら、経済成長を「時代の変化」と読み替えたら、いつの間に中華料理もコモディティ化した。
そこで高級店と町中華とが全国でふつうになったけど、むかしの中華街(横浜の古くからの住民は「南京町」という)を知るものからすれば、いまのあの場所は、市外からの観光客による「おすまし」の観光地になってしまった。
つまり、地元住民のふつう、ではもうない。
もちろん、行きつけのお店はあるけれど、古くからのお店が「絶滅危惧種」になっている。
さいきんは後継者問題で廃業した店を、居抜きで経営者が交代して、あたらしい形態に変化(じつはチェーン化)している。
これを、新陳代謝といういいかたもあるけれど、街自体が「別物」になりだした。
これが、むかしを知るものの「がっかり」と「寂しさ」の原因なのだ。
それは、人生経験におけるさまざまな「想い出」があるからである。
だから、気がつけば足が遠のいて、370万横浜市民の「南京町」ではなくなった。
しかし、役人はこういうところに目をつけて、どうしたわけか「税金」を投入する。
「港」と「中華街」が、市の看板となるからである。
それでもって、たっぷり公金を投じたら、「猥雑ないかがわしさ」を喪失して、よそよそしくなったのだ。
どこもかしこも、人工的に「整備」された、コンクリートとガラスでできた「ポスト・モダン」になったのである。
この「センスの無さ」が、ほぼ全国共通の役人の価値観だから、外国人観光客のなかでも「高単価客」が、「退屈なニッポン」と評価した。
おどろくことに、それだけの公金を投じたのに衰退するのは、店が悪いと決めつけるのも役人の性なので、とうとう観光課とか、観光庁という役所が、都度都度に命令をくだす。
これを、「介入」と感じないから、どうかしているのである。
さてそれで、横浜市という田舎者たちから離れて、相鉄の電車で30分も内陸部にいけば、そこはかつての「高座郡」である。
この土地は、文明開化のかつてから養豚業が盛んだった。
高度成長で需要がたかまった豚の大量生産で、効率重視の豚種がコモディティ化したので、一念発起した高座郡の経営者たちが協力して、効率と歩留まりに劣るが美味さでは劣らないばかりか優れた豚(ヨークシャー種)を原産地のイギリスから輸入して、これを「高座豚」として増やした。
相模川の向こう側、厚木市も養豚が盛んな土地である。
たいがいの外国は、肉食ではあるけれど、「モツ(内蔵)」をそのまま人間が食べる文化は珍しい。
だから、ヨーロッパの肉屋では、まずモツは入手困難である。
われわれのふつうが通じない愉快がある。
これが、いかほどに「価値」あるものか。
そんなわけで、厚木市民のあたりまえ、「シロコロ・ホルモン」が、全国B級グルメで大賞を得たのは、例によって厚木市役所の餌食になるかと心配した。
けれども、地元の専門店は、市民の支持で営業するだけだから、動じなかった。
シロコロとは、豚の直腸部分のことで、これはこれで希少部位である。
丁寧に洗浄するのは当然だけど、炭火で炙ってみれば、ぷっくりと膨らんで、なんともいえないプチッとした食感と、脂っこくないあぶらが口内にひろがる。
この美味さは、たしかに癖になること請け合いである。
新鮮な豚が手に入る、養豚の町ならではのごちそうだ。
電車に乗って行く価値がある。
役所が無理やりつくるのとはちがう、自然体の営業が、地元民に支持されるから、その中に入って経験するのが「観光」になるのである。
常連さんたちの注文方法と、食べ方を横目に、自分で確かめる。
タレでなく、「塩」を選択すると、テーブルにある調味料セットから、自分で味付けをするのも珍しい。
納得の満足である。