「科学が社会に負けた」といわれたのは、「ダイオキシン」が発端だった。
この連日の「誤報」で、いまだに焚き火も焼き芋もできなくなった。
しかし、人間にとっての「無毒」は、太古からのことをおもえば、簡単なことだった。
それでも、ダイオキシンによる実験をやってみて、人間の「被害」で唯一認められたのは、「ニキビができる」ことだけだった。
それがわかって以来、テレビは一切報道しないから、いまの若者は「ダイオキシン」という言葉すらしらない。
つづいて「フクシマ」が起きた。
それまでの放射線被ばく規制が、1ミリシーベルト/年だったものが、20ミリシーベルト/年(長期的には1ミリシーベルト/年を最終的に目指す)になったことでいわれた。突如20倍に緩んだのだ。
かっこ内の目標がいつなのかは、わからない。
なにが問題なのか?といえば、事故があって変わった、ということだ。
それまで「厳守」とされてきたことが、あっさりと切り替わって、放射線の専門家たちが、こぞって「健康に問題ない」といったから、なんだったのだ?になったのである。
しかも、放射能漏れ事故が発生するたびに、地元には巨額の補償金が渡されていたので、マスコミも容赦なく報道していた。
「マッチポンプ」というかたちでの、グルだったのではないか?
今回の「はやりやまい」は、感染症という自然現象における「恐怖」を背景に、やっぱり従来から「厳守」されてきたものが、あっさり変更された。
それが、従来の「患者数」から「感染者数」への発表の変化で、しかも、従来の「週累計発表」から「毎日発表」ということも同時に変更された。
週累計にしていたのは、土日の扱いを平準化するためであった。
保健所にあつまる、地元診療所からのデータが、土日休みの影響を受けるからである。
なので、今回の報道でも、毎週末の数字は土日の影響をもろに受けた数字が発表されていた。
もちろん、インフルエンザのばあいは、新規の「患者数」が注意報で40万人/週、警報で100万人/週という「万人単位」が、今回は「人」単位にも変更されたが、患者数ではなく感染者数であるから、まったく比較できない。
生物には、免疫システムが用意されている。
「患者数」ではなく「感染者数」を報じることの問題は、あたかもこの報道に毎日接していると、「感染そのものがいけないこと」に感じてしまうことにある。
つまり、「無菌状態」が「理想」になってしまうのだ。
これでは、生物としての人間は、地球上の環境で生きていけない。
「免疫システム」の否定になってしまう。
したがって、ウィルスや細菌に感染することは、免疫力を高めるうえでは、重要な体験になる。
「免疫力」として、ギリギリの闘いをやって勝った経験(=抗体ができる)は、その後何十年も有効になるからである。
「ワクチン」だって、わざと感染させることで、体内に抗体をつくり、本物の病気にならないようにするためのものだ。
つまり、ワクチン接種とは、感染者になることをいう。
感染者数で一喜一憂することの「愚」とは、このことだ。
わたしの幼稚園時代、「はしか」や「水疱瘡」で臨時休園になったことがあったし、その後、小学校低学年のときも同様のことがあった。
それで、わたしは、「はしか」と「おたふく風邪」を発症しないでいまに至っている。
友達からうつされるまえに、幼稚園や学校が休みになってしまったのだ。
あとになって、発症しなかった子どもの母親たちは、子どもの将来にえらく不安になって、休園や休校を怨んだものだ。
逆に、ちゃんと発症した子どもの親は、よくぞ感染してきたと、喜んでいた。
おとなになって、「はしか」と「おたふく風邪」の流行があると、外出したくないばかりか、子どもに近づくのもこわかったのは、今回の流行病どころではない。
驚くことに、わが国の国民は、科学リテラシーが退化して、感染そのものを忌み嫌うようになってしまった。
とんだ「間抜け」である。
原因は、情報リテラシーの欠如、すなわち、「情報弱者(情弱)」にあるのだろう。
たとえスマホを所持していても、玉石混淆の検索結果から、適確な情報を得ることができないために、結果、地上波のテレビしか情報源がない。
しかも、よく観ていて習慣化までしているのが、「ワイドショー」になっている。
今回の流行病は、フクシマの再来のごとく、全放送局が「役に立たない」ばかりか、根拠のない報道という「毒」を流しつづけた。
これで、視聴者の頭脳が冒されるという二次被害が発生している。
それで、他県ナンバーの自家用車をみつけると、嫌がらせのためのあおり運転をすることが「正義」になってしまうという「倒錯」が発生している。
「自粛」のときに、他県にやってくるとは「けしからん」から、あおって「出て行け」とメッセージを送るのが「正しい行為」となったのだ。
通常なら「嫌がらせ」にすぎないものが、「正義」となる。
それで、一部の自治体が連携し、「広域ステッカー」をつくって、これを県境をまたぐ対象地域の全戸に配布するという。
「圏域証」といって、「生活圏を共有しています」と書いてある。
こうすれば、他県ナンバーの自動車でも「あおられる心配はない」ということなのだろう。
つまり、このステッカーをつけていない自動車は「あおっていい」という意味なのだ。
近代は、「理性」によってつくられてきたが、その「理性」が、「社会」に負けた、わかりやすい事例である。
さてもわが国は、近代を捨てて、中世の混沌に逆流をはじめてしまった。
5月8日、「PCR検査」の相談規制を緩め、検査対象者を増やすのは、感染者を増やすという「意図」しかない。
これで、自粛延長の根拠としたいのがよくわかる。
さほどに、自粛延長の根拠が「ない」のである。
「患者数」をいわない政府の専門家とはなにか?
「退院者数」をいわせる政治家も何者か?
日本政府にも、とっくに「理性」はうしなわれている。